童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

カミングアウトとアウティング

カミングアウト:公にしていない自らの出生や病状、性的指向を表明すること。

アウティング:他人の出生や病状、性的指向を暴露すること。

僕は、これまで、はっきりと自分の性的指向について人に話したことはなかった。
特に、同性愛的な部分については、「そうなんじゃないの?」と聞かれても「そうではない」と答えてきた。
女性にも性的興奮を覚えることはあるので嘘ではない、と自分自身に言い訳をしながら答えていたと思う。
それも最近は嫌になってきて、最も付き合いのある友人には、このブログのことも含めて先日打ち明けた。
まあ、元々そう思っていただろうし、話したところで特に驚きもなかった。
納得されたというか、腑に落ちた、という風に見えた。

一方、去年はアウティングに関わる出来事が幾つか話題になった。
有名なところでは成宮寛貴氏の引退騒動だろうが、個人的には、一橋大学で起きた痛ましい事故が心に残っている。

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僕自身は、この問題の本質は、同性愛ということとは必ずしも関係がないと思っている。
告白したことをネタにして吊し上げようという輩は、同性愛に限らず異性愛の場合でも現れるし、当然非難されるべきだ。
(件のアウティング野郎はロースクールに通う学生だそうだが、守秘義務の発生する弁護士なんかは明らかに向いていないので多分辞めた方が良い)
同性愛という点をとりあえず置いておいても、一橋大学の対応は最悪だった。
ただ、ここまで問題化したのは、やはり同性愛者だと知られることが社会的な不利益に繋がるという意識を、多くの人が共有しているからだろう。
ある部分ではその通りだと思うし、僕自身が人に言えなかった理由も多少はそこにあると思う。
自ら差別を助長していると言われればその通りかもしれないが、そもそも、普段の社会生活において性的指向を明かさなければならない瞬間はほぼないので、放っておいて欲しいというのが素直な感想だ。
もちろん社会がもっと寛容に変わるべきとは思うが、「恥ずかしいことではないのだからカムアウトすべき」とアウティングに走る確信犯的な人たちは迷惑でしかない。

翻って、自分のことを考えてみたときに、カミングアウトを躊躇う一番大きな理由に思い当たった。
と同時に、アウティングに関することを考えていったとき、カミングアウトも少し考え直した方が良いかも知れないと思い始めている。
そもそも、このブログを書き始めたのは、自分自身の良く分からない性的指向を整理するためにも、嘘をつく必要がない匿名の書き捨て場を用意することが主な理由だった。
ブログを続けていれば、いずれ嘘偽りなく人と話せるようになるかと期待していた部分もあったのだが、少なくとも現時点では全く逆のことを考えている。
備忘録として、そう考えるに至った経緯を残しておく。

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落語の包容力

僕が落語にハマったきっかけは主に二つある。

一つは、数年前に参加した海外の学会で、ドイツの研究所に勤めるとある日本人の先生に言われた一言だった。

研究者は、噺家でなければならない

意味するところは、理学に携わる研究者は自分の研究を面白いストーリーにして人に聞かせる能力が求められる、ということである。
これを、学会会場のそばの湖畔に遊びに出かけた帰りにしみじみと話されて、何故だかひどく感心してしまったのだ。

大学院生だった当時から、僕は、理学というのは芸術に近いものだと考えていた。
研究が役に立つなどというのは幻想である。
税金を使って研究をさせてもらっている立場でこんなことを書くのは気が引けるが、役に立てようと思って研究をしたことは一度もない。
理学というのは、世の中に潜む不思議に対する好奇心から始まるもので、決して何かに役立てようとして始まるものではないからだ。
もちろん、結果として世の中の役に立つ成果が得られるかもしれない。
だが、それはあくまでも副産物で、それが目的では決してない。
したがって、研究を続けることを正当化するには、好奇心を社会と共有することが必要になる。
これが、「面白い話ができる」ということが研究者に求められる理由だ。
こんなことを元から考えていたから、研究と落語の関連を語られたときにとてもしっくりきたのだ。

もう一つは、ミーハーで恥ずかしいのだが、漫画だった。

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

 

昭和元禄落語心中」全10巻で、現在アニメも放送中だ。
第一巻が発売された時から買い続けて、素晴らしいセリフ、コマ遣い、ストーリーでここしばらくずっと僕の最もお気に入りの漫画である。
タイトルの通り噺家に関する話であるため、様々な噺がベストなタイミングと配置で出てくる。
これらをどうしても生で観たい、生で聴いてみたいと思った。
さらに、巻末のコーナーで寄席の紹介もされていて、常打ち小屋と言われる毎日興行をしている寄席が都内に4軒もあることを知り、しかも遅刻早退OKでものすごく入りやすいということを知った。
折角都内で学生をしているのだし、行ってみようと考えたのだ。

こんなきっかけを持って、最初に行ったのが池袋演芸場だった。
池袋演芸場は、芸劇の北側に位置し、池袋でも寄り付きにくい歓楽街の入り口付近にある。
しかも、一階でチケットを買うと地下に降りていくという、何か秘密めいた怪しい感じのする寄席だ。
ここで初めて生で落語を聴いた。
まず、舞台までの距離がとても近いことに驚いた。
さらに、どの噺家さんも面白い。
しかも、落語だけでなくマジック、ジャグリング、漫才、漫談、紙切りetcという、いわゆる色物が挟まって、決して飽きさせることもない。
こんな芸術があったなんて!!

これを境に、寄席に頻繁に通うようになった。
お気に入りの噺家さんができ、好きな根多が増えていくのにも時間はかからなかった。
同じ根多を別の噺家さんで聴くと、全く印象が違うことも知った。
昼の池袋演芸場で10人にも満たないお客さんというときに、以前観たときには爆笑をとっていた師匠が驚くほど滑りまくっているのにも遭遇して、落語が演者だけでなく客も含めた芸術だということを実感したりもした。
都内4軒の寄席は全て行ったし、YouTubeなどで昔の大師匠の落語を聴いたり、落語のCDを買ったりもするようになった。

ハマって高々4-5年くらいの僕ごときが語るのは大変おこがましい気もするが、僕なりにその魅力をまとめるならば、「包容力」だと思う。

とにかく、敷居が低い。
寄席は、遅刻早退OKもそうだが、予習復習も必要ない。
人の迷惑にならなければ飲食だってOKだ。
伝統芸能と呼ばれる他の芸事、歌舞伎にしろ能にしろ狂言にしろ、内容的にもお財布的にもとても敷居が高いイメージがある。
落語はそれとはまったく違う。
2000-3000円払って寄席に行けば、日本人なら必ず話している内容がわかるし、きっと笑える。
どこかでお弁当とお菓子を買って、何なら一杯ひっかけながら、気楽に座って観ていれば良いのだ。

そして、落語の噺は、どれも変態・変人に優しい。
どちらかと言うと、彼らに寄り添う内容が多い。

僕が最も好きな根多の一つに「野ざらし」という噺がある。
この噺は、後半に、酔っぱらった八つぁんが、釣り人達の隣で妄想に浸りながら滑稽にふるまうシーンがある。
その中で、咎められた八つぁんが怒って水をかき回し、寄ってきた魚を遠ざけてしまう。
普通ならば他の釣り人は怒るわけなのだが、怒りながらも言うのだ。

面白いからこの人見てましょう

僕は、何故だか、この台詞の優しさがもの凄く好きで、いつも何だか救われたような気がしてしまう。
自分がマイノリティであるという意識があるから、「いてもいいよ」と言われたような気がするのかも知れない。
ちょっとおかしな奴も愛しく思わせる、そんな包容力を、落語は持っている。
折角なので、最も好きな噺家である小三治師匠の「野ざらし」を貼っておく。


小三治 野ざらし

昭和元禄落語心中」にも出てくるフレーズだが、落語は「共感」を得るための芸だ。
「共感」を得るためには、市井に生きる人達に寄り添わなければならない。
弱い人、そそっかしい人、短気な人、頑固者…
様々なキャラクターが登場し、それを様々なキャラクターを持った演者が、様々な解釈でもって演じる。
だから、誰のことも受け止められる包容力があるのだろう。
あまたのキャラクターの中のどこかに自分がいて、しかもそれを愛しいと思える。
噺の中に、ひいては社会の中に自分の居場所を見つけられる。
言い過ぎかもしれないが、寄席に行くと、いつもそんなことを感じている。

息子のまなざし

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督との出会いはかれこれ何年前になるだろうか。
大学の授業が空いていたからとかそんな理由で恵比寿まで足を延ばし、まだリニューアルする前のガーデンシネマで「ロルナの祈り」を観たのが最初だったと思う。
とにかく僕にとっては衝撃的な作品で、エンドロールが終わって明るくなってもしばらく立ち上がれなかったことを覚えている。
余計な演出や説明が一切ないのに、描き方が丁寧で、理性で処理できない「情」のようなものを突き付けられた気分だった。
是枝裕和監督の「誰も知らない」を観たときの衝撃と似ていた気がする。

以来、ダルデンヌ兄弟の作品はなるべく追いかけるようにしている。
と言いつつ次の「少年と自転車」を観ただけで、直近の「サンドラの週末」は観に行けなかったので完全な俄かファンだ。
最新作の「午後8時の訪問者」は4月公開ということなので、是非行こうと思っている。

ダルデンヌ兄弟作品が好きになってから、過去作品も遡って観たいとずっと考えていた。
先日、ネットでCD・DVDをまとめ買いしていた時に、特に気になっていた「息子のまなざし」を発見して、購入した。
なかなかに見応えのある作品で、また性懲りもなく感想をまとめておこうと思う。

息子のまなざし [DVD]

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MW ~エロスとストロゲー~

ずっと読みたいと思っていた「MW」を読んだ。
とんでもなく面白かったので、感想をまとめておきたいと思う。

MW 悪魔の化身―悪魔の化身 (My First Big)

MW 悪魔の化身―悪魔の化身 (My First Big)

 

MWは、1970年代に青年誌で連載されていた作品で、「猟奇殺人」や「同性愛」といったショッキングなテーマを扱っていることから、多くの手塚作品の中でも「黒手塚」の代表作として特別視されている。
銀行に勤める美貌の男・結城美知夫と、神父の賀来巌の二人を軸に話が展開される。
二人は、少年時代に沖ノ真船島という南島で出会い、その島に密かに貯蔵されていた化学兵器「MW」の漏出事故に巻き込まれる。
島民は、彼ら二人を残して全滅。
ところが、その事故は時の政権によって握りつぶされて、闇から闇へ葬り去られてしまう。
結城は、この事故の当事者たちを相手取って誘拐、殺人、恐喝を続け、MWを手に入れて世界を滅ぼそうと画策する。
一方の賀来は、結城の行為を知りながら、それを止めることができない。
結城と賀来は、少年時代からずっと同性愛の関係にあるのだ。
結城との関係を続けながら、彼は次第に、神父としての使命感や背徳感、人としての罪悪感に苛まれていく。

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「徹子の部屋」2016年BEST3

今年に入ってから、HDDの中を整理しているときにふと気が付いた。
2016年の「徹子の部屋」を、一回も漏らすことなく観たことに。

僕は、テレビに出ている人では徹子さんとタモリさん以上に面白い人はいないと思っている人間だ。
さらにもっと言うと、インタビュー番組と生放送も大好きである。
したがって、「テレフォンショッキング」と「徹子の部屋」は僕の大好物だった。(徹子の部屋は生ではないが編集なしなので)
もちろん、時には恐ろしくつまらない回もあるのだが、最早、つまらなくても良いのだ。
毎回面白いものを見せてもらおうなんてエゴが過ぎる。

「笑っていいとも」が終了してしまった今、「徹子の部屋」を録画して観続けている。
とはいえ、基本、料理しながら録画を流すスタイルなので、ちゃんと観ていたかと言われると微妙だが、欠かさず録画していたということが我ながらスゴイ。
長期の出張がなかったことも幸いした。
もう今年に入って2週間が経とうとしているこのタイミングで、去年観た「徹子の部屋」の中から、独断と偏見によって勝手にBEST3を選んでみた。

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桃太郎計画

昨日、大学院の時の同期から久しぶりに連絡があり、東京で昼飯を一緒に食べる機会があった。

彼は、修士号取得とともに某企業に就職し、その数年後には結婚もして、去年第一子誕生、とまさに現代では珍しいくらいの順風満帆の人生を歩んでいる。
普段、なかなか会わない爽やかスポーツマンタイプの人間なので、興味の赴くままに根掘り葉掘り色々と聞いてしまった。
何せ、僕の人生においては、ほぼ起こりえないであろう出来事を、既に彼は一通り経験しているのだ。
興味は尽きない。

理系で研究室にいたことのある人ならば分かると思うが、研究室の同期というのは極めて重要な存在である。
指導教官という名の上司を共通の相手として、精神的・肉体的に何度助け合ったか分からない、まさに運命共同体である。
特に、実験系の研究室だったため、実験施設で二人で夜通し作業したことも数えきれないほどある。
僕は、その縁を笠に着て、ファミリーで賑わう連休初日昼時の洋食屋でかなり突っ込んだところまで聞いてしまった。
反省はしているが後悔はしていない。

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人間関係~サバイバルゲームからぬるま湯~

年末から年始にかけて、中学と高校の友人とそれぞれ飲みに行く機会があった。
中学時代と高校時代は、環境がとにかく対照的で、そこで繰り広げられた人間模様は僕の人格形成に多大な影響を与えている。
友人たちと懐かしい話をしながら、しみじみとそのことを実感したので、少し思い出しながらまとめておきたい。

 

中学時代は、本当に生きるか死ぬか、サバイバルゲームの世界だった。
いや、やり直せないので「ゲーム」ですらなかったかもしれない。

公立の割と荒れた地区の中学校だったため、いわゆる不良と呼ばれる生徒が各クラス数人程度いた。
トイレは基本的に煙草臭い、授業中に爆竹が鳴る、窓が割れることは日常茶飯事過ぎてガラス業者の人にあだ名が付いていて仲良し。
飴やガム、唾をそこここに吐き捨てるので、体育館といえども床を確認して座らないと大変なことになった。
今でも良く覚えているのが、当時風紀委員的な役職に就いていて、クラスの目標みたいなものを「男子は女子トイレで煙草を吸わない」というものにしたことだ。
教員に喫煙現場を押さえられないように、男子が女子トイレで煙草を吸うことが頻発しており、何とかしてほしいという大変もっともな苦情に基づいたものだった。
返す返すも志の低い目標である。
「〇〇(不良男子)は、女子トイレで吸わないから硬派でイイ奴」とかってセリフが普通に交わされていて、自分含めて通っている生徒たちも頭がおかしくなっていたに違いない。

こんな学校に入学して、僕をまず待ち受けていたのは、ちょっとした「いじめ」というか嫌がらせであった。
いわゆる普通の「いじめ」ではなかったので、この件は、また別の機会にまとめたいと思う。
半年くらいしたところで担任の介入によってとりあえずの解決を見た後、自分がここで生き抜いていくにはどうすれば良いか、ということを真剣に考えた。
何せ、運動はできず、腕っぷしも弱い。
勉強はできたけれども、そんなことはマイナスにはなっても決してプラスにはならない。
さらに、半年間のことがあるからほぼ腫物。
弱みを見せれば、休み時間ごとに喧嘩が始まるこの学校ではすぐ次の標的にされてしまうと思った。

結局僕がとった戦術は簡単で、とにかく全員とコミュニケーションをとり、広く浅く人間関係を作る、ということだった。
そもそも小学生の頃から人と話をするのは好きだったから、とにかく会う人会う人と、変な照れや気おくれみたいなものを捨てて、喋りまくった。
結論から言うと、この戦術はかなりうまくいったと思う。
特に女子たちが味方に付いたことが大きかった。
女の子扱いせず、趣味嗜好も近くて、性の匂いが全く感じられない僕は話しやすかったのだろう。
時には女子更衣室でクラスの女子が着替えている最中に、僕が窓を向きながら会話を続けるなんてことすらあった。
(そもそも小学生の頃から女子の友達ばかりだったのだけれども)
男女分け隔てなく話せる存在というのは、不良にとっても非不良にとっても教員にとっても重宝らしい。
色々と雑用を任されるようになって、クラスの中でもアイツはちょっと面白いし使えるやつという認識になったのだろうと思う。
交流の輪が拡がっていくと、いわゆる不良男子たちも、話してみれば結構分かり合えるやつが多かった。
とにかく敵意を見せず、不穏な空気を瞬時に察知して話題を変えることで大抵はやり過ごせた。

この3年間で、「如才なさ」みたいなものを徹底的に鍛え上げられたように思う。
はっきり言って、勉強をしていたという記憶はまるでない。
毎日どうやって生き抜くかを考えていた。
当時に戻りたいかと言われれば絶対に戻りたくないが、ただ、あの3年間が全くの悪(失敗)だったかというとそうとも言えない。
不登校になってしまう人たちも少なからずいて、あの学校に通うことでその後の人生を狂わされた人間も存在しただろうが、間違いなく、現在の僕があるのはあの学校のおかげ(せい?)だと断言できる。
むしろ、私立の中学校で悠々生きていたら、今とは全く違う思考の人間になっていた気がする。
人を第一印象で判断して、コミュニケーションをとろうともしない人間になっていたかもしれないと思うと、恐怖さえ覚えるのだ。

 

高校時代は、打って変わって、まさにぬるま湯であった。
1年の時など、中学とのギャップの大きさに驚いて、逆に人間関係がぎくしゃくしたくらいだ。

公立校の中でもそこそこの偏差値の学校に入学したので、周りはほぼクラスで学級委員とかを任されていたタイプ。
暴力が支配する世界とはかけ離れた場所だった。
そんな学校にあって、1年から2年でクラス替えが行われたとき、もうぬるま湯としか呼べないようなクラスが誕生した。
例えるならば、クラスに一人は居た誰とでも話せるタイプの奴、それが寄せ集められたようなクラスだった。
決して協調性があるわけではない。
むしろ個人主義で、一人一人は干渉されることが苦手なタイプ。
だけれども皆人当たりは良いから、仲は良い。
聞かれたくないことは聞いて来ないし、参加したくない行事は参加しなくていいし、逆に自分も相手に決して強制はしない。
だから、色んな行事があったけれどもトップに入ることはほぼなかった。
それでも、楽しかったら結果なんてどうでもいいと笑えるクラスだった。

中学の頃は身を守るために人当たり良く無難に振る舞っていたが、それでも「八方美人」と揶揄されることもあった。
だから、自分と同じ種類の人たちが集まったこのクラスに加わったとき、スゴく救われたような気持ちになったのは間違いない。
あんなにも無駄に気を遣わなくて良い(気遣いがないわけではない)人間関係は後にも先にもあの時だけだったと思う。
中学の頃に苦労した分、ご褒美を貰ったのだくらいに思っていた。
いまだに頻繁に会っている最も近しい友人は、このときのクラスメイトだ。

 

一応ブログのテーマでもあるので、自分の性的指向についての当時の扱いも思い出してみる。
中学生の頃は、芽生え始めていたゲイ的な性質について、当然、隠し通した。
わざわざ殺されに行くようなものである。
というか、この頃は自分でも信じられなかったので、自分に言い聞かせるようにこの件については封印していた気がする。
それでも、高校生の頃には自分でも認めざるを得ない程に、自分の中の同性愛的特質を感じていた。
それをカムアウトしたところで、おそらくあのクラスならば、受け入れられたろうな、とは思う。
でも話せなかったのは、特別その必要性を感じなかったからかもしれない。
ビバリーヒルズ青春白書ばりに付いたり離れたりするクラス内恋愛模様を、全く無関係な場所から見物できることが楽しかった。
いや、でも結局、彼らがどう思うかより、自分で自分のことを整理できていなかったからかもしれない。
それに、彼らも勘付いてはいただろう、という気もする。
いつか、もう少しオープンにできるようになったら聞いてみたい。