童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきた。

元々、森見登美彦氏の作品が大好きで、制作決定の報せを受けてから、ずっと楽しみに待っていた。
森見作品で人間が主人公のものは、童貞こじらせて自意識こねくりまわしているようなのが多いので、共鳴するところが多かったのだろう。
個人的には「太陽の塔」が最も好き、というか肌に合う。
時系列では多分「太陽の塔」、「四畳半神話大系」、「夜は短し歩けよ乙女」の順だったと思うが、作品を重ねるごとに読みやすくなっていった印象がある半面、独特の鬱屈具合は薄れていった感があった。
四畳半神話大系」は、アニメ版も素晴らしくて、ポップさと理屈っぽさの同居が夢のような世界観で実現していることに感動したのを覚えている。
今回はそのアニメ版と同じスタッフということで、同様の体験が
できるのでは、と非常に期待していた。
そして、その期待は叶えられたように思う。


『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告

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死の魅力 ~リリィ・シュシュのすべて~

最近気になるニュースがあった。

www.asahi.com僕の素直な感想は、4人に1人とは随分少ないな、だった。

僕自身は、中学1年生の時によく自殺したいと考えていた。
大学に入学する際、ストレスチェックテストのようなもので、「自殺を考えたことがあるか?」という質問に愚かにも「はい」と答えたら、問診でしつこく色々と話を聞かれて閉口したことがあった。
あの時にも自分はマイノリティなのか、と思ったが、まさか世の75%の人が自殺を考えたことがないとは。
面倒を避けるためにアンケートで嘘を吐いた人が多いだけではないか、とどこかでいまだに訝しんでいる。

仕事場の同僚の方からの強い薦めもあって、ずっと観ようと思っていた岩井俊二監督の代表作「リリィ・シュシュのすべて」を観た。

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

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噂に違わぬ力作で、鑑賞後は数日の間、うまく感想をまとめられずにいた。
ようやく、上記の自殺の話題と重ねて、ぼんやり見えてきたので、備忘録のために残しておくことにする。
少し前の作品でもあるし、内容にも踏み込んで書こうと思う。
未鑑賞でネタバレを避けたい方は、読まないで欲しい。

 

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10代の主題歌

先日、YUKIさんが出演したSONGSを観ていて、10代の終わりくらいの頃、自分のテーマソングはこれだと確信していた曲があったことを思い出した。
改めて、自分のiPodで聴きなおして、確かに相変わらず共鳴するところがあるし、しかも自分の今の仕事にも通じている部分があったことに驚いた。
折角なのでまとめておこうと思う。

 

高校卒業~大学生の頃、自分は世の中のことが面白くて仕方なかった。
今もスタンスとしてはあまり変わっていないが、当時はもっと夢見るようにそう思っていた。
何でも知りたかったし、何でもやってみたかった。
好奇心こそが自分のアイデンティティ、みたいな。
どれだけ行動に移せていたかはさて置き、そう思っていたことは確かだ。
当時、その気持ちを具現化したような2曲が同じくらいのタイミングで発表され、本当に良く聴いていた。

YUKIさんの「JOY」と東京事変の「透明人間」だ。

JOY

JOY

透明人間 (アルバムバージョン)

透明人間 (アルバムバージョン)

トラックももちろん大好きなのだけれども、10代の僕は特に歌詞に魅かれていた。

 

まずは「JOY」から。
この曲のテーマは最後のフレーズに凝縮されている。

死ぬまでどきどきしたいわ

死ぬまでわくわくしたいわ

まさに、好奇心をそのまま曲にした作品である。
でも、もっとも素晴らしいと思うのは、好奇心の先が描かれているところだ。
同じフレーズで反対の意味の言葉が一つの曲に同居している部分に現れている。
1サビ

しゃくしゃく余裕で暮らしたい

約束だって守りたい

誰かを愛すことなんて

本当はとても簡単だ

 ラスト前

いつまでたってもわかんない

約束だって破りたい

誰かを愛すことなんて

ときどきとても困難だ

世界は面白い。
それを学んだり体験したりすることは価値のあることだ。
でも、それが良いもの/悪いものと判断するか、好きになるか嫌いになるかは、その先の問題だ。
この曲は、その問題に対して、どちらでも良い、と回答している…と思っている。
時間が経てば答えは変わるかもしれないし、立場でだって変わるかもしれない。
先のことはどうでも、大事なことは、そもそも知ろうとする好奇心(JOY)である。

個人的には元々の歌詞カードで

運命は必然じゃなく偶然でできてる

となっている部分が、後に本人によって

運命は必然という偶然でできてる

に変更されたところもたまらない。
変更後の方がはるかに素晴らしい。

 

次に「透明人間」。
この曲は一貫して、世界の事物に対して常に混じりっ気なしの気持ちで向き合いたい、という心が描かれている。
「JOY」ではどちらでも良いと回答されていた部分に対して、良いとか悪いとかそもそも洒落くさい、というスタンスである。
そして、いつか透明でなくなってしまう(濁ってしまう)ことへの漠然とした恐れ、実はもう既にそうなっているのかも知れないという焦りが入る。

二番の冒頭

僕は透明人間さ ずっと透けていたい

本当はそう願っているだけ

何かを悪いと云うのはとても難しい

僕には簡単じゃないことだよ

大サビ前

恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら

濁りそうになったんだ

真面目な林檎さんらしい歌詞だと思う。
恥ずかしいという感情が「濁り」に繋がるというのは、確かにその通りだとハッとさせられる。

 

この二曲を聴きながら、僕は大学で理学の道に進み、そのまま幸運にも学位を取得して現在に至る。
なぜ、理学を選んだのか、と言えば、結局これらの楽曲で示される通り、好奇心こそが重要と思っているからなのだろう。

理学は、工学や医学といった分野と違って、人の役に立つような研究はしない。
役に立たないと言ったら語弊があるが、少なくとも役に立てようということが出発点にならない。
分からないことや説明できないことが現れたときの「何故?」から始まる。
例えば、実験をしていると、時たま予想に反する結果が得られることがある。
その時こそが、最も研究をしていて楽しくなる瞬間だったりする。
理学分野の研究者は、人間の好奇心の象徴であり、役に立たないもの(文化)を担うものとしては、むしろ芸術家に近い。
10代の後半に、上の二曲を主題曲として暮らしていた僕が理学を選んだのは、必然という偶然だったのだろう。

 

さて、この記事を書いていて、上記の二曲は、いずれも「子ども」の存在が透けて見える作品であることに気が付いた。
「JOY」は、YUKIさんの産休明けの作品であるし、「透明人間」も一人称が「僕」な分、少なからず林檎さんのご子息の存在を感じる。
もしも、両者が母になったことで、現れてくる視点なのだとすると、なかなか面白いことだ。
確かに、混沌に対して快不快を訴えるだけだった存在が、言葉を得て世界が整理され、日ごとに変貌を遂げる様を傍で見ていると、人間の本質の一つに、間違いなく「好奇心」が含まれている、と実感するものなのかも知れない。

それにしても、好奇心は旺盛なくせに、何故、童貞を捨てようとは思わなかったのだろう。
無性愛的ではあったけれども、トライしてみる位はしても良かったはずだ。
好奇心はあっても勇気はなかった、ということか。
いや、単にモテなかったということかも知れない。

一人暮らし適性

世の中には、一人暮らしに向いている人間と向いていない人間がいる。
2年ほど一人暮らしを継続してみて、僕は前者に含まれるのだということを実感している。

元来、ほぼ一人っ子として育てられてきたこともあって、一人○○には抵抗がない。
一人レストラン、一人旅、一人映画、一人寄席、一人ライブ、一人水族館、etcetc
興味がないからやらないだけで、一人焼き肉、一人カラオケ、一人ディズニーも平気でできるだろう。
もちろん、誰かと一緒に体験を共有する喜びも理解できるし、それが嫌いなわけでは決してない。
でも、体験を独り占めできる喜びというか贅沢感も同じくらい好きなのだ。
一人だと、相手の反応や希望に考えを回す必要がないだけ気が楽ということもある。
とは言え、大学院を出るまでずっと実家暮らしだったし、両親との関係も良好だったので、一人暮らしがしたいとも思っていなかったし、自分に向いているかは良く分からなかった。
ただ、ある部分では、一人暮らしを始めたら、寂しさでやりきれなくなるような夜が来るのではないかと期待していた。
自分にも性欲が湧き上がってくる日が来るのではないか、と。

 

しかし、期待も虚しく、とりあえず今までのところ一人暮らしが楽しくて仕方ない期間が続いている。
とにかく楽だ、ということに尽きる。
自分の食べたい料理を作って食べ、したい恰好でウロウロして、好きな時間に好きなことをしていられる。
どうも自分は、実家でそれなりに気を遣っていたらしい。
確かに、クリームシチューをご飯にかけたり、夏場に家の中では基本全裸だったり、ということは、流石に実家ではしていなかった。

それに、元々、一通りの家事ができたことも大きいと思う。
大学院の頃、全く家事ができなくて実家のお母さんに週一で片付けに来てもらっている人の話を聞いたことがあるが、その人はさっさと結婚を決めていた。
周りを見回してみても、結婚している男性はどちらかと言うと、家事能力に問題ありの奴が多い気がする。
結婚するかどうかは、つまるところ、必要に迫られるかどうか、強い意志の有無が重要なファクターになるのだと痛感している。

 

さて、一人暮らしを続けてみて、二つ、考え方に変化が起きた。

一つは、「誰かと暮らす」ということへのハードルが高くなった。
実家に暮らしていた頃は、割と誰かと共同生活するのは難しくないと軽く考えていた節があった。
当時はまだ学生で、気持ちに余裕があったせいもあるかも知れない。
しかし、一人暮らしをするようになって、こんな人とは暮らせないというのが増えてきた。
例えば、古くなった食品を平気で捨てる人、潔癖の人、自分の時に終わってもトイレットペーパーを替えない人、人の趣味を否定してくる人。
つまらないことも多いが、楽な生活を知ったことで、どんどんと許容の幅が狭くなってしまっている。
と同時に、自分のこだわりみたいなものが顕わになってきて、ちょっと面白くも感じている。

もう一つは、SNSに自分の料理をあげている人達の気持ちが理解できるようになった。
確かに、誰かに見せるという気持ちがないと、料理というのはいくらでも手を抜くようになる。
特に、盛り付けが顕著だ。
夏場、冷やし中華を良く作るのだが、一人暮らしになってから、具が麺の上に載った状態で食べていない。
何故なら、麺を茹でながら具材を切って皿(というか丼)に入れていくので必然的にその順番になる。
他にも、作りながら食べてしまうので、全ての料理を揃えてから、ということも少なくなった。
この生活を改めるため、ちゃんと文化的な食事をするために、SNSで公開という適度な緊張感を利用することは、成程、意味のあることかも知れないと考えるようになった。
ただ、自分で実践しようという気には今のところなっていない。

 

先日、仕事場で同僚と上記のような話をしたら、2年くらいではまだ楽しいだろう、辛いのは10年くらいしてから、と言われた。
確かに、それはそうかも知れない。
病気も、ノロウィルスに罹ったくらいで、数日寝込むレベルのものには遭っていない。
そもそも、老化していけば、体が今のようには動かせないことも出てくるだろう。
そして、何より、両親が亡くなった時には、かなり考え方が変わる予感がある。
向こう10年したら、今のこの楽しい気持ちが薄れて、つがいを求める気持ちが立ち上がってくるのだろうか。
自分の心境の変化も楽しみつつ、しばらくは一人暮らしを継続していくつもりだ。

彼らが本気で編むときは、

先日のLA LA LANDに続いて、荻上直子監督の「彼らが本気で編むときは、」を観てきた。
荻上監督は、「バーバー吉野」や「カモメ食堂」が割りと好みで、その後の作品もちょこちょこ観に行っていた。
一時期大ブームになった食べ物が美味しそうなお洒落ゆる旅系映画の火付け役と言っていいと思う。
雑誌hanakoとか読んでる女子が好きそうな感じ。
そんな監督が最新作でLGBTをテーマにするということで、童貞とは言え僕もその端くれであると自認しているので、観ねばなるまいと思っていた。


生田斗真がトランスジェンダーの女性に『彼らが本気で編むときは、』予告編

 

率直に言って、大変不快な作品だった。
その不快感の正体について、自分なりに良く考えてみた。
考えてみて、ブログの記事にするかどうかについてかなり悩んだ。
特定の作品に対する批判を公にすることは、なかなか覚悟のいることだ。
単なる悪口になってしまうのは、その作品を一生懸命作り上げた人たちに対して申し訳無さすぎる。
ただ、本作がLGBTに真面目に向き合っているとかレビューで書かれているのを見ると、当事者の一人として、どうしても訴えておかねばなるまいと思うところがあったので、やはりまとめておくことにする。

今回の記事はかなり辛辣な内容になる。
もしもこの作品のファンであり、批判的意見は目にしたくないという人があれば、この先は読まないようにしてもらいたい。
それから、今回はネタバレのことは気にせず書いていくつもりだ。
これから鑑賞される予定の方も、以降の内容は読まないようにしてもらいたい。

 

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LA LA 落語が観たい

引っ越しからの実験、学会準備で忙しい日々を過ごしていて、なかなかブログを書くことができない。
書きたいことがあるのに書けないのはなかなか焦れるものだ。
とりあえず、引っ越しに関連して独り暮らしについて書きたいと思っていたのだけれども、時間ができたところで映画を観に行ってしまったので、そちらからまとめることにする。

LA LA LANDを観てきた。
アカデミー賞でも話題の作品だったし、公開されて間もなかったこともあり、レイトショーと言えどなかなかの混雑ぶりだった。
個人的にミュージカル映画は大好物なので、楽しみにしていた。
「シカゴ」や「オペラ座の怪人」、「レ・ミゼラブル」のように、既にミュージカルとして確立されたものの映画化ではない。
こうした作品が評判になることは珍しいようにも思うし、期待は高かった。


「ラ・ラ・ランド」本予告

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ストーカーと映画 ~ トーク・トゥ・ハー × アンナと過ごした4日間

僕はストーカー映画が好きだ。
いや、ストーカー映画などというジャンルはないのかも知れないけれども、とにかくストーカーが題材になっている作品が大好物だ。

そもそも映画に限らず芸術作品とは、自分とは全く異なる人間の心の動きを追体験させてくれるところに大きな意味があると思う。
だから自ずと芸術作品に現れるキャラクターは、社会的弱者であったり反社会的人物であったりすることが多い。
そうした人々にスポットを当てて共感を促すことで、問題提起したり、あるいは社会を少しだけ寛容にしたりする。
それこそが、芸術作品の担う大きな役割だろうと感じている。

僕にとって、ストーカーは最も遠いようで近い存在だと思っている。
このブログで何度も書いているように、僕は無性愛的傾向が強い人間なので、特定の誰かに対して固執したりすることがない。
その意味でストーカーとは真逆な人生を歩んでいると言える。
しかし見方を変えると、一度もそうした経験がないということは、いつかその瞬間が来た時に、正しく受け止められない危険性が高いとも言える。

ストーカーの特徴の一つは、何と言ってもアンバランスで歪んだコミュニケーションだろう。
ストーカーは自分から発信はするのに、正しく受信できない人間だ。
相手が嫌がっていても、それを照れていると解釈してしまう。
自分が発信したことを、思っている通りに相手が受信すると信じ込んでいる。
身勝手極まりない心の動きだけれども、友人同士とか仕事場とか家庭とか、もっと普遍的なコミュニケーションにまで問題を単純化すると、誰しも陥らないと断言することはできないはずだ。
その状況を未然に防ぐのが「経験」だろうと思うのだが、僕の場合、こと恋愛に関してはそれがない。
それに、経験値を積むには年をとりすぎてしまった。
だから、特にストーカーの視点が丁寧に描かれた作品に対しては、何となく他人事とは思えず、好奇心と戒めの気持ちとともに少しの愛着を感じている。
別にストーカーを擁護する気持ちは全くないけれども、その心理状態は確実に自分と地続きのところにあると思うのだ。

 

2月某日、友人と一緒に久しぶりに早稲田松竹に行ってきた。
大好きなペドロ・アルモドバル監督の特集で「トーク・トゥ・ハー」が上映されるということで、楽しみにしていた。
本作は、良ストーカー映画として強く印象に残っている作品の一つで、改めて観て再度衝撃を受けてしまった。
その衝撃をきっかけに、自分の中でストーカーと映画で二本立てを作ってみたくなり、記事にまとめることにした。

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