童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

人間性の回復 ~ 聲の形 × アクト・オブ・キリング

「聲の形」を観てきた。
先日「君の名は。」を観に行って、全く乗れなかったということを記事にしたが、こちらはある意味で対称的な作品で、僕にとっては親和性の高いテーマであり、無事に没入することができた。

 

ただし、こちらも「君の名は。」とは全く別の理由で、生半可な批判が許されない雰囲気を纏っている。
軽い気持ちで意見するにはセンシティブ過ぎるテーマ「いじめ」が描かれているからだ。
程度の差こそあれ、多くの人が、いじめの加害者・被害者・傍観者のいずれかを経験している。
かくいう僕も、中1の頃に、いじめと呼ぶにはまだ大人しいものだったけれども、クラスメートから嫌がらせを受けていた。
そして、その後、僕はおそらく傍観者になっていた。
いじめ問題が難しいのは、余りにも一つ一つのケースが千差万別で、正解も不正解も無数にあり、しかもいずれも取り返しのつかない結果を孕んでいるところだと思う。
その問題に、大多数の当事者あるいは元当事者が自らの立場と経験に基づく意見を持っているのだ。

 

終わりのない「いじめ代理戦争」を展開することは本意でない。
自分の受けた嫌がらせについてはまた別の機会にまとめるとして、今回は、ちょっと別の視点で感想をまとめておきたい。

 

 


映画『聲の形』 ロングPV

 

タイトルにも付けた「人間性の回復」は、僕が最も興味をそそられる大好物のテーマだ。
本作もそれをテーマにした無数の作品の中の一つで、少なくとも僕の思うところの本質を捉えていたように思う。

 

人間性の回復は、苦痛の中でのみ達成される。

 

自分の罪に気付くということは、自己否定の始まりだ。
自分を支えるものを失うということ。
不安定。喪失感。孤独。絶望。
罪の大きさに従って、まさに生き地獄としか呼べない苦しみが始まるのだ。
しかし、その苦しみの中にようやく「人間性」が産まれる瞬間を見出せる。

 

本作の主人公・石田は、作中ほぼ全編ずっと苦しみ続ける。
余りの苦しさに観ている方が辛くなってくるほどであるのに、彼が苦しむほどに人間も捨てたものではないという希望が湧いてくる。
さながら返しのついた矢を抜いていく過程のようだ。
抜けてきてようやく人間の姿が見えてくる。
逆に、罪に気付かなかった、あるいは罪を転嫁した彼以外の人間たちは、苦しみを味わわない代わりに、ことごとく人間性の回復に失敗している。
ヒロイン西宮と関わった人間の中で、明確に、言い逃れができない罪をかぶったのは彼一人だった。
このことは、ある意味では幸運だったのかもしれない。
彼は、文字通り「死ぬほど」の苦しみの果てに、居場所らしきものを見つけることができていた。

 

僕は、本作を観ながらずっと、2年くらい前に観たとある作品のことを思い出していた。
アクト・オブ・キリング」というインドネシアの映画である。
この作品は、「人間性の回復」へと繋がる地獄の苦しみの開始を捉えたドキュメンタリーとして傑作中の傑作だと思っている。

 


映画『アクト・オブ・キリング』予告編(4月、シアター・イメージフォーラム他全国順次公開)

 

「聲の形」に対して、いじめの規模も内容も全く桁違いなのだが、この作品は、インドネシアで実際に起こった大虐殺を題材にしている。
しかも、その大虐殺を指導した勢力が政権をとっているため、かつて虐殺を実行した人々が、英雄として暮らしているのだ。
この作品は、虐殺された人間たちではなく、この虐殺をした人間たちにスポットライトを当てている。
彼らに、自分たちの「武勇伝」を映画にしてみないか、と提案し、その映画撮影に密着したという極めて画期的なドキュメンタリーなのだ。

 

冒頭、インタビューを受けるかつての虐殺者たちは、自分の行った殺人について自慢げに答えている。
それが彼らにとって誇らしいことなわけであるから当然なのだが、観ていると本当に身の毛がよだつ話ばかりだ。
ところが、映画を撮り進める内に、明らかに様子が変わって来る。
映画撮影の中心人物であるアンワルという老人は、徐々に自分の行ったことに不安感を覚え始める。
そして、目を背けたくなるような、それでいて希望に溢れた、他に類を見ない衝撃的なラストへと繋がっていく。

 

おそらく、ポイントになっているのは、主客の逆転だろう。

この点は二つの作品に共通している。
「聲の形」では石田が、まさに加害者から被害者に転落することで経験する。
アクト・オブ・キリング」ではアンワル氏が、自分の撮っている映画の中で被害者を演じることで経験する。
後者では、映画撮影に直接参加しておらず、しかも虐殺そのものでも実行犯ではない人間は、都合の良い言い訳をどこかで必ず準備している。
その点も「聲の形」と良く似ている気がする。

 

 

ここからは、個人的に思っていることだが、僕は、「気付き」こそが最も重要なのだと思っている。
その「気付き」のおかげで、苦しみが始まるわけだけれども、少なくとも気付く前と後では、人間は明らかに変わる。
「聲の形」の中で、「変わる」という言葉が大事な言葉として何度か出てくるが、僕からすると、それは「気付いたかどうか」で決まっている。

石田は気付いていた。
そして、実は西宮は気付いていなかった。

 

二つの作品を並べてみて、改めて自分は「気付ける」人間でありたいと思ったし、「気付いた」人間に寛容でありたいと強く思った。
願わくば、重すぎる「気付き」を経験した「アクト・オブ・キリング」のアンワル氏に、「聲の形」の永束くんのような聖人が現れていて欲しい。