童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

この世界の片隅に

この世界の片隅に」の2回目の鑑賞に行ってきた。

konosekai.jp
先月、渋谷ユーロスペースで友人と初めての鑑賞。
その情報量の密度、完成度の高さ、圧倒的な面白さにうまく感想がまとめられずにいた。
そのままパンフレットを購入し、さらに原作も買って読み、どんどんと感想がまとめられなくなっている。
本当に、切り口が無数に存在する作品なのだ。
SNSを中心に素晴らしいレビューがたくさん上がるのも良く分かる。
現在、強い支持に押されて、当初に比べて公開規模が格段に拡大している。
お正月にも、実家の両親と一緒にまた観に行きたいと思っている。

すずさんの筆を通した世界とそれが奪われてしまった世界とか、すずさんと周作さんの罪と罰の対称性とか、あるいは、クラウドファンディング・のんさんの起用といった作り手から伝わってくる反骨精神とか。
昆虫の存在感とか、炊き出しや食事の舞台効果とか、「鷺」と「タンポポ」の意味するものとか。
あれこれ感想をまとめる切り口をぐるぐる考えていたのだが、先週、それらが丸ごと吹き飛ばされるような衝撃的な事件が起きてしまった。

シリア・アレッポの虐殺である。
日本では残念ながら報道も少なく(ちょうど当事者の一人が来日中だったこともあって)、また仮に報道があったとしても遠い国のこととして関心も低かったかもしれない。
ただ、「この世界の片隅に」がヒットしている現在だからこそ、このニュースはもっと実感を持って扱われるべきだろうという気がしたのだ。
自戒もこめて、この視点から映画の感想をまとめておこうと思う。

 

本作は、太平洋戦争末期の広島を舞台に、主人公すずさんが送った暮らしを克明に描いた作品である。
集められるだけの歴史資料を基にして、アニメだからこそ描ける「リアルさ」を徹底的に追求した力作になっている。

この作品のレビューの中で、良く見かけるフレーズがある。

「淡々と暮らしを…」「地味だけど…」「穏やかな日常…」

まさにその通りで、徹頭徹尾、すずさんが幼少期を広島で過ごし、呉に嫁いで、そして終戦を迎えるまでの暮らしをひたすらに追い続けている。
だけれども、「プライベートライアン」とか派手な戦争ものに比べて、訴えるものが少ないかと言ったら、そんなことはまるでない。むしろ逆である。

 

戦争における暴力を描く上では、市井の当たり前の生活を描くことが、最も効果的である。
何故なら、描かれている人々は、まさに映画を観ている我々自身だからだ。
すずさんは、周作さんは、りんさんは、水原さんは、晴美ちゃんは、映画を観ている僕らそのものなのだ。
彼らが細やかな優しさやつつましい幸せを見せるたびに、未来を知っている観客たちは、やがて来る悲劇を予感して、その暴力の重さが増していく。
日付が変わるたびに心の中のカウントダウンが進んでいく。
だから、突如はさまるB29からのカメラの視点にはっとするのだ。
戦闘機から見下ろす点のような家々、その絵そのものが持つ暴力性に。
その一つ一つに暮らしがあり、幸せがあるはずなのに、全てが同じように何てことない構造物に見えてしまう恐怖。

穏やかな暮らしに徐々に血と火薬の匂いが立ち込めてくる。
沢山の死が忍び寄ってくる。
気付かないくらいにゆっくりと。
それを見ていると、時折、恐ろしくなる。
今、自分たちは平和なつもりで日々を送っているけれども、実はこの映画の中の1シーン、案外最後に近い部分にいるのではないか。

 

歴史の教科書や遠い国のニュースをみても、どうしても、その向こう側にある名もなき人々のことを想像することは難しい。

映画冒頭、すずさんが広島の街を歩くシーンで既に自分の想像力のなさを思い知らされる。
自分が生まれたときには既にそこは平和記念公園で、実際に行ったこともあったけれど、かつて人で賑わう街だったことをどこか信じられずにいたのだ。
また、映画の後半に、すずさんが、家族を必死で探す人々に次々と間違えられて声をかけられるシーンがある。
今まで、そんな想像をしたことがなかった。
例えば、中東の国でテロが起こったというニュース。
瓦礫のそばで泣き叫ぶ母親の映像が流れれば、遠い日本にいる僕たちでも心を痛めるけれども、彼女の向こう側には、もっと多くの必死で家族を探す人々がいたはずなのだ。
間違って声をかけられた人達が、間違いとわかって絶望の表情を向けられた人達がいたはずなのだ。
ちょっと考えれば分かることなのに、本当に恥ずかしい。
「平和ぼけ」という言葉で括ってしまえば簡単なのかもしれない。
けれども、世界中で起きている出来事に対して、自分と地続きの問題として想像し、「彼らの」ではなく自分自身の問題として捉えることは、戦争に限らず、極めて重要なことだろうと思う。

 

そして、現在、その想像はより一層しやすい環境になっていると思う。
すずさんが生きた、あの時代よりも。

一番はSNSの発達だ。
Twitterをひとたび検索すれば、世界中にいる無数の「すずさん」の声を聴くことができる。
冒頭のアレッポの件に関して言えば、アレッポ東部に避難をすることもできず取り残された市民たちの声が、生々しく挙がっている。
美しかったはずのアレッポの街が、空爆によって見るも無残な姿に変わった写真も挙げられている。

www.huffingtonpost.jpmod

このアレッポの虐殺の件は西側諸国によるデマであるという噂や、反政府軍の支配の方が非人道的で、むしろ今回の一件は市民の解放であるとする報道があることも知っている。
しかし、アメリカの息のかかった反政府軍にしろ、ロシアと繋がったシリア政府軍にしろ、武力衝突によって無数の市民の暮らしが奪われたことは疑いようのない事実だ。
そして今なお、万の単位で市民たちが取り残されていることも。
同じく暮らしを守る「すずさん」の一人として、原爆にしろ空爆にしろ、否応なくそれを奪っていく暴力を許してはならない。
たとえ、それがどんなに政治的に社会的に必要とされている行為だったとしても、非難されなければならない。
なぜなら、それらは全て「我々」の問題でもあるからだ。
そして、聞こえてくる無数の「すずさん」の慟哭に無関心になってはならない。

 

全く説教臭くないこの作品を観て、最高に説教臭いことを感想としてまとめてしまった。
だが、全て自戒のつもりで書いたことだ。
作品の名誉のために強調しておくが、本作は説教臭さの欠片もない。
原作含めて、そうならないために非常に心を砕いていることが良く分かる。
自分のブログに何か影響力があるとは思わないが、作品の印象を下げるようなことにならないかどうかだけが気がかりだ。

 

ところで、この記事を書きながら、とある楽曲を思い出したので、そちらを貼って終わりにしたい。
ある意味、2016年は初めから終わりまでこの人だったと言えるかもしれない。
川谷絵音氏の楽曲だ。


ゲスの極み乙女。/サリーマリー

彼のスキャンダルについて今更とやかく言うつもりはないが、僕は彼の作る楽曲は結構面白いと思っているし、彼の感性というか時代を捉える感覚には目を見張るものがあると感じている。
特にこの「サリーマリー」が収録された「魅力がすごいよ」は、彼のフィルターを通した社会が垣間見えて、かなりお気に入りの一枚だ。

「サリーマリー」の冒頭はこんな歌詞になっている。

儚くも消えてく鐘の音に
いつも気付かないし
身近にある優しさに似た
狂気にも当然気付いていない

怖いな

武器を取ってなくした心の欠片に気付かないで
空気になった命の軽々しさに慣れ始めた

こうやってまた街が燃えて
瞬間を切り取れない間に
もう過去の話に変わってる 怖いな

彼がどんな気持ちでこの詩を書いたのか、本当のところは分からないが、少なくとも僕は上記にまとめた自戒のような意味で受け取った。
いよいよ表舞台から遠のきつつある彼だが、個人的には、彼の「この世界の片隅に」評を聞いてみたいと思っている。