童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

バケツでごはん

去年の年末位に実家を整理していたら、小学生くらいの頃にかなり愛読していた漫画が出てきた。

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一世を風靡した動物占いのイラストの玖保キリコ氏による漫画で全8巻。
動物たちが、実は、人間と同じような生活を送っている、という設定で、人間界と動物界の特異点である上野動物園で働く動物たちを描いた物語である。
基本はサラリーマンもので、中途採用でやってきたギンペーちゃんが、複雑な人間(ペンギン?)関係の中で仕事に恋に奮闘する様が描かれている。

当時アニメも放送されていたはずで、それがきっかけだったのか、両親(二人ともオタク気質)のどちらかが買ったのだろう。
小学生で内容もちゃんと理解できるはずもなかったのに、本当に頻繁に読んでいた。
ちゃんと面白いと思っていたのだから、我ながら見どころのある子供だったと思う。

 

懐かしくて久しぶりに読んでみると、相変わらず面白くて、しかも大人になった分、一つ一つのエピソードに実感が伴ってくる。
そして、読みながら強く感じたのは、僕の人間観というか人間関係の捉え方の原点は間違いなくここにある、ということだった。
人様から受けた相談に対して、童貞の分際でアドバイスしたり説教をぶったりする際の言葉は、源流を辿るとここに行きつくのではなかろうか、とさえ思える。
作品を紹介がてら、自分がどの部分に魅かれて、どの部分が蓄積されたのか考えてみたいと思う。

 

「バケツでごはん」のキャラクターたちは、いずれも劣らぬ奥深さがあって、一口には説明のしようもない。
でも、この作品の面白いところは、それらのキャラクターを極めてフラットな視点で観られるという点にある。

それは、本作の設定によるところが大きい。
内容的には極めて現実的な人間臭いエピソードなのに、その主人公たちはあくまでも動物なのだ。
例えば、中途採用で女性3人が加入するシーンがあるのだが、この3人は極めて美しいという設定になっている。
さらに、3人がある仕草をすると、他の男ペンギンたちが一斉に鼻血を出すという場面もあったりする。
もちろん、多少かわいくは描かれているのだけれども、所詮はペンギンであるし、仕草にしてもペンギンの求愛行動なので、それで読み手が興奮することはない。
つまり、動物という形でデフォルメされることで、キャラクターに必要以上の感情(主に性的な)を抱かせない作りになっているのだ。

珠玉のキャラクターたちを、極めてフラットに描き、なおかつ受け取る側もフラットに眺められる。
ちょうど動物園のサル山を見るときのように、完全に俯瞰の立場から、その中の人間関係を楽しめる幸せがある。
余計な感情を排した神の視点で眺めることで、各キャラクターの内面がより浮き立ち、より好きになる感じ。
僕が実際に人とやり取りをするときのスタンスはこの辺りに原点がある気がしている。

 

そんな、記号化された人間関係が「バケツでごはん」には描かれているわけだが、その中でも、僕が特に魅かれるものを幾つか紹介したい。
ただ、主人公ギンペーちゃん周りは少し多すぎるので、ペンギン関係以外に絞る。

 

ズブさんとタボン

ズブさんことズブロフスキーさんは、かつて上野動物園で働いていたオオカミで、現在は辞めて廃品回収の仕事をしている。
「バケツでごはん」の世界では、動物園で働くことは一種のステータスとされていて、エリートの証ということになっている。
つまり、彼は誰もが羨む職業を捨てて、儲けもなさそうな廃品回収の仕事を暢気にやっている世捨て人のような存在なのだ。
その彼が、ある日廃品回収先で汚いなりをした子豚(タボン)に出会う。
どうやら行く宛がないらしいタボンを、彼は引き取って育てることになる。

 

おそらく、小学校時代の僕が、最も実感を持てたのはこの二人の関係だったのだろうと想像する。
理由は簡単で、事情はかなり違うのだけれども、僕と母の関係に似ているからだ。
(母との関係については以前の記事にまとめてある)
何の縁もゆかりもないはずの二人(二匹?)が家族になるという異常事態。
僕は子供側の立場しか分からなかったわけで、ズブさんに母を重ねながら、どこか希望を見つけようとしてたのかもしれない。
作品は、ズブさんが、タボンとのやり取りの中で、自分自身の人生についても新しく踏み出すところまで描いている。
そのことが、僕自身に積もった「巻き込んでしまったことへの負い目」みたいなものを軽くしていたのかもしれない。

大人になって改めて読んでみると、ズブさんの立場も何故か実感を伴って眺められるから不思議だ。
別に義理はないのに、どうしようもなく使命感に駆られることは、程度の違いこそあれ、誰にでも起こりうることだろうと思う。
と、どんどんと僕自身が、自分を楽にするためだけの都合の良い言い訳を増やしている気がしてきてしまったので、この辺りでやめておくことにする。

 

フラジーちゃんと黒田さんとミミ

当時も今も、僕が本作で最も好きなキャラクターの一人がキリンのフラジーちゃんである。(ちなみにもう一人のお気に入りはペンギンのチェザーレ)
フラジーちゃんは、夢見るファンシーな若い女の子の持つ業と魅力を全て背負ったキャラクターだ。
嫉妬、見栄、思い込み、我が儘、世間知らず…だけども一途で素直で率直。

仕事仲間のシマウマのシマくんから熱烈アタックを受けているのだけれども、本人には全くその気はない。(でもデートらしきことはする)
本当は、同じく仕事仲間のクロヒョウの黒田さんに恋い焦がれていて、でも告白なんて恥ずかしくてできない、と片思いを満喫している。
しかも、良く知りもしないで、黒田さんはきっとこんな人、と決めつけてどんどん妄想を膨らませていたりする。
そこへ、本作屈指の曲者キャラクター、ミンクのミミが現れる。
彼は、自分を可愛く見せることに対する高いプロ意識を買われて上の動物園に中途採用される。
そして彼もまた、黒田さんが気になり始めて、めでたくキリンとクロヒョウとミンクという謎の三角関係が出来上がる。(あ、シマくん入れたら四角関係か?)

フラジーちゃんは、新参者の、しかも男性が想い人に言い寄っていくことに強く反発する。
ただ、素晴らしいと思うのは、フラジーちゃんは恋敵としてのミミに強烈に反発しているのであって、同性愛者であることは単なる属性の一つくらいにしか思っていないところだ。
もちろん、それを攻撃材料として揶揄したりはするのだけれども、気に入らない理由はあくまでも「後から入ってきて黒田さんにちょっかいをかけるから」なのだ。
ミミの生き方や心情の吐露に対して、フラジーちゃんの姿勢はいつも素直で、彼女はちゃんと自らの振る舞いを反省する。
だから、話が進むにつれて、二人の関係は割と理想的な女友達のそれに代わっていくのだ。

さて、ここまで想われてモテまくりなだけの黒田さんに対して何も書いてこなかった。
だが、この人は実はこの3人の中で最もイメージを覆す人物なのだ。
彼は、話が進んでいくと、ある癖に目覚めていく。
それが3人の関係を変えたり、逆にまた振り出しに戻したりして、何とも面白いのだ。
彼らがとある結婚式で披露するショーのそれぞれの心情の差を描くシーンなんかは抱腹絶倒である。

 

小学生の頃に自分がセクシャルマイノリティである自覚はなかったが、女子の友達の方が多かったので、「普通の男子」ではないのだろうと思っていた。
だからこそ、この3人の関係が面白く映っていたのだろうが、ミミよりもむしろフラジーちゃんが好きな理由は、結局良く分からない。
でも、お酒が入って普段のファンシーさが抜けたフラジーちゃんがギンペーちゃんに恋愛を語るところは、昔から本当に好きだった。
「人」を好きになることの本質を作中で直接言葉にしてくれるのは、実は彼女だったりする。
当時も今も、その「好き」に対して、憧れみたいなものがあるのかもしれない。

 

ロンさん一家

ギンペーちゃんが含まれない人間関係でこの一家のことは外せないだろう。
ロンさん、ポンさん、息子のリーチくんはパンダの親子である。
鳴り物入りで上野動物園に採用されて特別待遇を受けるのだが、余りにも居丈高でプライドが高く、傲慢なロンさんは、園内で孤立してしまう。
そして、とあるきっかけで動物園を辞めた彼らは、独立して近くにパンダ園を始めたりするのだ。
その後も、考えうるあらかたの修羅場を経験して、ロンさん一家の形はどんどんと変化していく。
とにかくロンさんのダメ親父っぷりとリーチくんの孝行息子っぷりがスゴイ。

彼らのエピソードはドラマチックな分、現実感が薄いのだが、家族がぶつかり合ったり離れたりしながら成長していく様は、やはり普遍的な魅力があると思う。
脳科学の立場では、人間の三大欲求の一つに集団欲が入るらしい。
家族は、人間が作る最小単位の集団・社会と言えるし、たとえ僕のように性欲に疑問符がついている人間でも、家族を求めることは不思議ではないのかもしれない。
ただ、小学生の僕は、単に「色々と事情を抱えた家族」という部分にシンパシーを感じていたような気もする。

 

 

記事を書くに当たって単行本を調べたら、もう今は昔の大判のコミックは絶版で、文庫版しか出ていないらしい。
かなりの名作だと思うのにもったいない。
今年「君の名は。」「逃げ恥」がヒットして、現代人もやっぱりまだ恋人とか夫婦とかに希望を持っていたのだなあと実感した。
今こそ、本作は色んな人に引っかかる作品だと思う。