童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

落語の包容力

僕が落語にハマったきっかけは主に二つある。

一つは、数年前に参加した海外の学会で、ドイツの研究所に勤めるとある日本人の先生に言われた一言だった。

研究者は、噺家でなければならない

意味するところは、理学に携わる研究者は自分の研究を面白いストーリーにして人に聞かせる能力が求められる、ということである。
これを、学会会場のそばの湖畔に遊びに出かけた帰りにしみじみと話されて、何故だかひどく感心してしまったのだ。

大学院生だった当時から、僕は、理学というのは芸術に近いものだと考えていた。
研究が役に立つなどというのは幻想である。
税金を使って研究をさせてもらっている立場でこんなことを書くのは気が引けるが、役に立てようと思って研究をしたことは一度もない。
理学というのは、世の中に潜む不思議に対する好奇心から始まるもので、決して何かに役立てようとして始まるものではないからだ。
もちろん、結果として世の中の役に立つ成果が得られるかもしれない。
だが、それはあくまでも副産物で、それが目的では決してない。
したがって、研究を続けることを正当化するには、好奇心を社会と共有することが必要になる。
これが、「面白い話ができる」ということが研究者に求められる理由だ。
こんなことを元から考えていたから、研究と落語の関連を語られたときにとてもしっくりきたのだ。

もう一つは、ミーハーで恥ずかしいのだが、漫画だった。

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

 

昭和元禄落語心中」全10巻で、現在アニメも放送中だ。
第一巻が発売された時から買い続けて、素晴らしいセリフ、コマ遣い、ストーリーでここしばらくずっと僕の最もお気に入りの漫画である。
タイトルの通り噺家に関する話であるため、様々な噺がベストなタイミングと配置で出てくる。
これらをどうしても生で観たい、生で聴いてみたいと思った。
さらに、巻末のコーナーで寄席の紹介もされていて、常打ち小屋と言われる毎日興行をしている寄席が都内に4軒もあることを知り、しかも遅刻早退OKでものすごく入りやすいということを知った。
折角都内で学生をしているのだし、行ってみようと考えたのだ。

こんなきっかけを持って、最初に行ったのが池袋演芸場だった。
池袋演芸場は、芸劇の北側に位置し、池袋でも寄り付きにくい歓楽街の入り口付近にある。
しかも、一階でチケットを買うと地下に降りていくという、何か秘密めいた怪しい感じのする寄席だ。
ここで初めて生で落語を聴いた。
まず、舞台までの距離がとても近いことに驚いた。
さらに、どの噺家さんも面白い。
しかも、落語だけでなくマジック、ジャグリング、漫才、漫談、紙切りetcという、いわゆる色物が挟まって、決して飽きさせることもない。
こんな芸術があったなんて!!

これを境に、寄席に頻繁に通うようになった。
お気に入りの噺家さんができ、好きな根多が増えていくのにも時間はかからなかった。
同じ根多を別の噺家さんで聴くと、全く印象が違うことも知った。
昼の池袋演芸場で10人にも満たないお客さんというときに、以前観たときには爆笑をとっていた師匠が驚くほど滑りまくっているのにも遭遇して、落語が演者だけでなく客も含めた芸術だということを実感したりもした。
都内4軒の寄席は全て行ったし、YouTubeなどで昔の大師匠の落語を聴いたり、落語のCDを買ったりもするようになった。

ハマって高々4-5年くらいの僕ごときが語るのは大変おこがましい気もするが、僕なりにその魅力をまとめるならば、「包容力」だと思う。

とにかく、敷居が低い。
寄席は、遅刻早退OKもそうだが、予習復習も必要ない。
人の迷惑にならなければ飲食だってOKだ。
伝統芸能と呼ばれる他の芸事、歌舞伎にしろ能にしろ狂言にしろ、内容的にもお財布的にもとても敷居が高いイメージがある。
落語はそれとはまったく違う。
2000-3000円払って寄席に行けば、日本人なら必ず話している内容がわかるし、きっと笑える。
どこかでお弁当とお菓子を買って、何なら一杯ひっかけながら、気楽に座って観ていれば良いのだ。

そして、落語の噺は、どれも変態・変人に優しい。
どちらかと言うと、彼らに寄り添う内容が多い。

僕が最も好きな根多の一つに「野ざらし」という噺がある。
この噺は、後半に、酔っぱらった八つぁんが、釣り人達の隣で妄想に浸りながら滑稽にふるまうシーンがある。
その中で、咎められた八つぁんが怒って水をかき回し、寄ってきた魚を遠ざけてしまう。
普通ならば他の釣り人は怒るわけなのだが、怒りながらも言うのだ。

面白いからこの人見てましょう

僕は、何故だか、この台詞の優しさがもの凄く好きで、いつも何だか救われたような気がしてしまう。
自分がマイノリティであるという意識があるから、「いてもいいよ」と言われたような気がするのかも知れない。
ちょっとおかしな奴も愛しく思わせる、そんな包容力を、落語は持っている。
折角なので、最も好きな噺家である小三治師匠の「野ざらし」を貼っておく。


小三治 野ざらし

昭和元禄落語心中」にも出てくるフレーズだが、落語は「共感」を得るための芸だ。
「共感」を得るためには、市井に生きる人達に寄り添わなければならない。
弱い人、そそっかしい人、短気な人、頑固者…
様々なキャラクターが登場し、それを様々なキャラクターを持った演者が、様々な解釈でもって演じる。
だから、誰のことも受け止められる包容力があるのだろう。
あまたのキャラクターの中のどこかに自分がいて、しかもそれを愛しいと思える。
噺の中に、ひいては社会の中に自分の居場所を見つけられる。
言い過ぎかもしれないが、寄席に行くと、いつもそんなことを感じている。