童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

ストーカーと映画 ~ トーク・トゥ・ハー × アンナと過ごした4日間

僕はストーカー映画が好きだ。
いや、ストーカー映画などというジャンルはないのかも知れないけれども、とにかくストーカーが題材になっている作品が大好物だ。

そもそも映画に限らず芸術作品とは、自分とは全く異なる人間の心の動きを追体験させてくれるところに大きな意味があると思う。
だから自ずと芸術作品に現れるキャラクターは、社会的弱者であったり反社会的人物であったりすることが多い。
そうした人々にスポットを当てて共感を促すことで、問題提起したり、あるいは社会を少しだけ寛容にしたりする。
それこそが、芸術作品の担う大きな役割だろうと感じている。

僕にとって、ストーカーは最も遠いようで近い存在だと思っている。
このブログで何度も書いているように、僕は無性愛的傾向が強い人間なので、特定の誰かに対して固執したりすることがない。
その意味でストーカーとは真逆な人生を歩んでいると言える。
しかし見方を変えると、一度もそうした経験がないということは、いつかその瞬間が来た時に、正しく受け止められない危険性が高いとも言える。

ストーカーの特徴の一つは、何と言ってもアンバランスで歪んだコミュニケーションだろう。
ストーカーは自分から発信はするのに、正しく受信できない人間だ。
相手が嫌がっていても、それを照れていると解釈してしまう。
自分が発信したことを、思っている通りに相手が受信すると信じ込んでいる。
身勝手極まりない心の動きだけれども、友人同士とか仕事場とか家庭とか、もっと普遍的なコミュニケーションにまで問題を単純化すると、誰しも陥らないと断言することはできないはずだ。
その状況を未然に防ぐのが「経験」だろうと思うのだが、僕の場合、こと恋愛に関してはそれがない。
それに、経験値を積むには年をとりすぎてしまった。
だから、特にストーカーの視点が丁寧に描かれた作品に対しては、何となく他人事とは思えず、好奇心と戒めの気持ちとともに少しの愛着を感じている。
別にストーカーを擁護する気持ちは全くないけれども、その心理状態は確実に自分と地続きのところにあると思うのだ。

 

2月某日、友人と一緒に久しぶりに早稲田松竹に行ってきた。
大好きなペドロ・アルモドバル監督の特集で「トーク・トゥ・ハー」が上映されるということで、楽しみにしていた。
本作は、良ストーカー映画として強く印象に残っている作品の一つで、改めて観て再度衝撃を受けてしまった。
その衝撃をきっかけに、自分の中でストーカーと映画で二本立てを作ってみたくなり、記事にまとめることにした。

 


映画「トーク・トゥ・ハー」日本版劇場予告

ペドロ・アルモドバル監督と言えば、「オール・アバウト・マイ・マザー」という作品で、ペネロペ・クルスという類い稀な美女を世に知らしめたスペインの名監督だ。
とにかく毎度毎度脚本が素晴らしくて、先の展開が全く読めないストーリーと複雑かつ濃い人間模様が描かれる。
元々、母親がアルモドバル監督のファンで、劇場で最初に観たのは「ボルベール<帰郷>」だったと思う。
つまらない倫理観をぶっ飛ばすようなストーリー展開、それでも否応なく作品世界に引き込んでくる感情の揺さぶりと役者たちの名演に、一発で好きになった。
あと、単純に、原色で彩られた画面が美しい。
まんまと母親に沈められ、新作が公開されるたび連れだって観に行っている。

本作は、彼の作品群の中でも特に脚本が素晴らしい一作だと思っている。
主人公は、看護師のベニグノとライターのマルコ。
ベニグノは、事故で昏睡状態に陥ったダンサーのアリシアを数年間にわたって献身的な介護を続けている。
一方のマルコは、取材の過程で知り合った闘牛士のリディアと恋仲になるが、リディアが闘牛中に大けがを負って、やはり昏睡状態に陥ってしまう。
二人の男性と二人の眠り続ける女性が出会い、交流する物語だ。

様々な切り口が存在する作品、というか余りの展開にどう受け止めれば良いか分からなくなる作品なのだが、今回はストーカー映画ということで、ベニグノに焦点を当てたい。
彼は、看護師としてアリシアの世話を続けているが、実は事故に遭う前の彼女と会っている。
元々、アリシアの通うバレエスクールの向かいに住んでいて、大人になるまでずっと母親の介護をして暮らしていた。
時折見かけるアリシアの姿に惚れ込み、いつしか彼女の姿を追うようになっていく。
そして事故の後、母親の介護で身につけた手腕を認められて、彼女の看護を任せられるようになる。

彼のアリシアに対する愛情は純粋そのものだ。
彼女のいない世界など意味がないと本気で思っている。
しかし、彼女は物言わぬ姿で眠り続けていて、彼の愛情表現はどこまでいっても一方通行だ。
しかし、実はそれこそが彼にとって重要で、少しも不幸なことではない。
何故なら、ずっと母親の介護しかしてこなかった彼の人生には、一方的でない意思の疎通などなかったからだ。
まさにお人形遊びのように、世話をして語り掛けることが、彼にとっての「交流」であり「会話」なのだ。
作中のマルコ同様、彼の人生に寄り添うと、どうしても彼のことを気持ち悪い人間だとして断じることができなくなる。
こんなとんでもない話の主人公でも、なっていたかもしれない自分が重なるからだ。

余談だが、途中、彼はゲイなのではないかと病院内で噂される。
後にとある事件が起きてそれは否定されるのだが、僕は、実は彼は本当にゲイだった可能性もあると思っている。
それでも、前の晩に観た無声映画に心をかき乱されて、一線を越えてしまうのだ。
そう考えた方が、この作品はより一層ドラマチックだろう。

 

ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督の作品だ。
彼の作品はハードなものが多いので、以前友人と一緒に観に行って大層ご不興を買ったことがある。
個人的にはその作品「エッセンシャル・キリング」もかなりのお気に入りだったのだけれども、映画の趣味ばっかりは押し付けても仕方がない。
以来、彼の作品は必ず一人で観に行くようにしている。

本作は、初めから終わりまで、まさにストーカー視点で話が進んでいく。
余計な描写は一切ない。
男が夜毎に看護学校の寮に忍び込んで、アンナという女性の部屋を片付けたりペディキュアを塗ってあげたりする。
書いているだけでもおぞましい行為なのだが、それを犯人視点で見続けることになる。
見つかるかもしれないという張り詰めた緊張感が常に画面から放たれていて、一時として心が休まることがない。
下手なアクション映画やホラー映画よりもよほどドキドキする。
最初のシーンで、今にも猟奇的な殺人事件の起きそうな曇天の田舎町が映るだけで、何かを予感させる。
そして夜の暗さが凄まじい。
それほど多くの作品を知っているわけではないが、暗闇の描写で言うとトップクラスの作品だと思う。

本作は、基本的に会話がほとんどない作品なのだが、話が進行していくと、段々と彼がアンナのストーカーとなる理由が明らかになっていく。
そして、それが一つの決着を見せることで話は終わる。
つまり有体に言えば、失恋の話だ。
たとえ歪んでいたとしても、ある種の愛情表現をずっと観てきて、なおかつその背景も知った立場としては、どうしてもラストに絶望感というか無力感を感じてしまう。
しかも、それが何のセリフも説明もつかないワンカットで見せつけられる。
シアター・イメージフォーラムで観て、ずっと忘れられない一作になった。

上に、ホラー映画よりも…と書いたけれども、本作はまさにそのレベルの怖さがある。
作中、本筋とはほとんど関係がないのだが、アコーディオンが出てくるシーンがある。
僕はこのシーンで全身の毛が逆立ち、上映中にもかかわらず声をあげそうになった。
怖いものが好きな人には割と勧めたいと思っているのだが、やはり件の友人の不評のことがあって二の足を踏んでいるところがある。