童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

10代の主題歌

先日、YUKIさんが出演したSONGSを観ていて、10代の終わりくらいの頃、自分のテーマソングはこれだと確信していた曲があったことを思い出した。
改めて、自分のiPodで聴きなおして、確かに相変わらず共鳴するところがあるし、しかも自分の今の仕事にも通じている部分があったことに驚いた。
折角なのでまとめておこうと思う。

 

高校卒業~大学生の頃、自分は世の中のことが面白くて仕方なかった。
今もスタンスとしてはあまり変わっていないが、当時はもっと夢見るようにそう思っていた。
何でも知りたかったし、何でもやってみたかった。
好奇心こそが自分のアイデンティティ、みたいな。
どれだけ行動に移せていたかはさて置き、そう思っていたことは確かだ。
当時、その気持ちを具現化したような2曲が同じくらいのタイミングで発表され、本当に良く聴いていた。

YUKIさんの「JOY」と東京事変の「透明人間」だ。

JOY

JOY

透明人間 (アルバムバージョン)

透明人間 (アルバムバージョン)

トラックももちろん大好きなのだけれども、10代の僕は特に歌詞に魅かれていた。

 

まずは「JOY」から。
この曲のテーマは最後のフレーズに凝縮されている。

死ぬまでどきどきしたいわ

死ぬまでわくわくしたいわ

まさに、好奇心をそのまま曲にした作品である。
でも、もっとも素晴らしいと思うのは、好奇心の先が描かれているところだ。
同じフレーズで反対の意味の言葉が一つの曲に同居している部分に現れている。
1サビ

しゃくしゃく余裕で暮らしたい

約束だって守りたい

誰かを愛すことなんて

本当はとても簡単だ

 ラスト前

いつまでたってもわかんない

約束だって破りたい

誰かを愛すことなんて

ときどきとても困難だ

世界は面白い。
それを学んだり体験したりすることは価値のあることだ。
でも、それが良いもの/悪いものと判断するか、好きになるか嫌いになるかは、その先の問題だ。
この曲は、その問題に対して、どちらでも良い、と回答している…と思っている。
時間が経てば答えは変わるかもしれないし、立場でだって変わるかもしれない。
先のことはどうでも、大事なことは、そもそも知ろうとする好奇心(JOY)である。

個人的には元々の歌詞カードで

運命は必然じゃなく偶然でできてる

となっている部分が、後に本人によって

運命は必然という偶然でできてる

に変更されたところもたまらない。
変更後の方がはるかに素晴らしい。

 

次に「透明人間」。
この曲は一貫して、世界の事物に対して常に混じりっ気なしの気持ちで向き合いたい、という心が描かれている。
「JOY」ではどちらでも良いと回答されていた部分に対して、良いとか悪いとかそもそも洒落くさい、というスタンスである。
そして、いつか透明でなくなってしまう(濁ってしまう)ことへの漠然とした恐れ、実はもう既にそうなっているのかも知れないという焦りが入る。

二番の冒頭

僕は透明人間さ ずっと透けていたい

本当はそう願っているだけ

何かを悪いと云うのはとても難しい

僕には簡単じゃないことだよ

大サビ前

恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら

濁りそうになったんだ

真面目な林檎さんらしい歌詞だと思う。
恥ずかしいという感情が「濁り」に繋がるというのは、確かにその通りだとハッとさせられる。

 

この二曲を聴きながら、僕は大学で理学の道に進み、そのまま幸運にも学位を取得して現在に至る。
なぜ、理学を選んだのか、と言えば、結局これらの楽曲で示される通り、好奇心こそが重要と思っているからなのだろう。

理学は、工学や医学といった分野と違って、人の役に立つような研究はしない。
役に立たないと言ったら語弊があるが、少なくとも役に立てようということが出発点にならない。
分からないことや説明できないことが現れたときの「何故?」から始まる。
例えば、実験をしていると、時たま予想に反する結果が得られることがある。
その時こそが、最も研究をしていて楽しくなる瞬間だったりする。
理学分野の研究者は、人間の好奇心の象徴であり、役に立たないもの(文化)を担うものとしては、むしろ芸術家に近い。
10代の後半に、上の二曲を主題曲として暮らしていた僕が理学を選んだのは、必然という偶然だったのだろう。

 

さて、この記事を書いていて、上記の二曲は、いずれも「子ども」の存在が透けて見える作品であることに気が付いた。
「JOY」は、YUKIさんの産休明けの作品であるし、「透明人間」も一人称が「僕」な分、少なからず林檎さんのご子息の存在を感じる。
もしも、両者が母になったことで、現れてくる視点なのだとすると、なかなか面白いことだ。
確かに、混沌に対して快不快を訴えるだけだった存在が、言葉を得て世界が整理され、日ごとに変貌を遂げる様を傍で見ていると、人間の本質の一つに、間違いなく「好奇心」が含まれている、と実感するものなのかも知れない。

それにしても、好奇心は旺盛なくせに、何故、童貞を捨てようとは思わなかったのだろう。
無性愛的ではあったけれども、トライしてみる位はしても良かったはずだ。
好奇心はあっても勇気はなかった、ということか。
いや、単にモテなかったということかも知れない。