童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

男女の間の友情

「男女の間に友情は成立するのか」

これは、僕が高校生の頃に、保健体育のディベートの授業で実際に議題になったテーマだ。
授業そのものは、成立する立場のチームとしない立場のチームが互いに意見を戦わせる、というものであって、最終的な結論を出すことは目的ではなかった。
ちなみに、僕自身は成立するチームに配属され、女友達が多かったこともあって随分と鼻息荒く主張をしていたような記憶がある。
もし成立しえないのなら、僕のアイデンティティはどうなるのだ、と。

 

僕には、家族以外で最も親しくしている友人が二人いて、どちらも女性だ。
彼女たちとは高校の頃に出会い、主にオタク趣味の部分で意気投合して、今でも頻繁に会っている。
互いの家に泊まりに行ったこともあるし、3人だけで温泉に一泊したこともある。
同じ部屋で布団を並べて寝ても、我々の間では何の間違いも起きないという確信が共有されている。
そして、現実の友達の中でこのブログを見せたことがあるのも、この二人だけだ。
ある意味で、家族よりも自由に、ありのまま話せる関係なので、二人に救われている部分はかなり大きいと思っている。

3人であちこち出かけたり、飲み屋に行ったりしていると、時折、他の人から「どういう集まりなのか?」といった質問をされることがある。
会話の内容からすると、多分「オフ会」が一番適当だと思われるが、一応高校の元同級生だし「プチ同窓会」になるのだろうか。
しかし、そもそも、このような疑問を持たれる原因は、ほぼ間違いなく僕にある。
僕自身は、好奇の目で見られることを何とも思っていないが、二人を巻き込んでしまっている点については少なからず申し訳なく思っている。
かと言って特に良い対策もないので、向こうに彼氏ができたら誘う回数を減らす位しかしてこなかったのだけれども。
基本的に、男性に生まれて良かったと思うことがほとんどだが、この点についてのみ、女性であれば楽だったかもと思うことがある。
一方で、もし女性だったらここまで仲良くなっていただろうか、とも思ったりする。

 

さて、元に戻って、「男女の間の友情」について現在の視点から考え直してみたい。
高校時代の僕が「成立する」と主張した根拠は、とどのつまり、自分が女性とも友達だったからだ。
今でも、いわゆる"セックス"としての生物学的「男女」の間のことを指すならば、強い実感を伴って「成立する」と断言できる。
でも、そうではなくて、いわゆる"ジェンダー"としての「男」と「女」(社会的・文化的存在)を指した場合には、果たして「成立する」と言えるだろうか。
言い換えるならば、自分は果たしてジェンダー的な立場で考えたときに「男」だと自認できるだろうか、という疑問である。
正直に言うと、僕は自分が「男」であるということに自信はない。
僕の性自認をなるべく正確に表すなら、「女ではない」だからだ。
女でないからと言って、男である保証はない。

そうなってくると、「男女の間の友情」が成立する根拠はなくなってしまう。
ある部分では、むしろ、「成立しない」ことが「男女」たらしめるような気さえしている。
何故なら、「友情」は、互いを必要とし過ぎないところが重要だと思うからだ。
僕が、二人の友人と長く付き合ってこれている理由の一つは、3人とも基本的に自分の世話を自分でできるところにある気がしている。
もちろん、場面によって互いに弱音を吐きあったり精神的に支え合うことはあっても、依存し過ぎることは決してない。
言い方を換えれば、友情とは、対称な関係の上に成り立っている気がする。
一方で、ジェンダー的な「男女」はどうだろうか。
そもそも「男」と「女」と呼んで社会的あるいは文化的に棲み分けていることからすると、互いに何らかの役割があって補い合う関係のように思える。
つまり、関係の非対称性に焦点が当たっている。
とすると、「男女」という呼び方そのものが友情と矛盾する、ということにならないだろうか。
世の中に性別の異なる友人関係は無数にあるだろうが、その関係において、両者は「男」でも「女」でもないのではないか。

考えてみれば、僕はこれまでの人生でずっと、人と話をするときに相手の性別を特に意識したことがない。
大学生くらいになるまでは、誰しもそうなのだと思って生きてきたのだが、どうもそうではないらしい。
異性関係において、相手を自分とは違う種類の存在として認識した場合には、確かに友人関係は結びにくいかもしれない。
「男女の間に友情は成立しえない」という人間こそが、「男」あるいは「女」としてノーマルな状態なのかもしれない。

 

かつて、高校生だった頃は、毎日机を並べて知った顔に会うことは、ごく当然のことだと思っていた。
大学に入り、さらに社会人になって、いかにそれが異常なことだったかを実感している。
あの当時よりも、友人一人一人の価値は間違いなく高くなっている。
体験を共有する場が与えられない分、大人になってから友達を作るには労力がいる。
ジェンダーだ何だと下らないことは気にせず、これからも友人は男女問わず大事にしていくつもりだ。