童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣

先週末、東京で友人の相談事に付き合った後、兼ねてから観たいと思っていた作品を渋谷のル・シネマまで観に行ってきた。


映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』予告編

ちなみに、ル・シネマに来たのは数年ぶりだったが、相変わらず客層が慣れない感じで懐かしい居心地の悪さだった。
一番苦手とするル・シネマっぽい客は、露出度が高いナチュラル素材の服を着て、大きいリング状のイヤリングとかブレスレット付けてて、頭にサングラス載せてて、すぐオーガニックとか言い出しそうな西海岸風さばさば系マダム。
苦手だけれども、同じ映画を観てどんな感想になるのかは気になった。
きっと僕とはまるで違う受け取り方をしただろう。

それにしても、ちょっとタイトルが長すぎるような気がする。
おそらく原題は単に「Dancer」だったのだと思われる。
邦題もそれに倣って、「ダンサー」とだけするわけにはいかなかったのだろうか。

 

予告でも紹介されている通り、バレエ界の天才ダンサーとして名を馳せていたセルゲイ・ポルーニン氏の軌跡を収めたドキュメンタリー映画になっている。
才能に溢れた彼が如何に上り詰め、そして苦悩し、壊れ、それでも踊り続けてきたか、を見せてくれる。


Sergei Polunin, "Take Me to Church" by Hozier, Directed by David LaChapelle

 

本作を通じて強く感じたのは、彼の「子ども」時代が如何に搾取されていたか、ということだ。
ウクライナの貧しい村の出身であったけれども、本人の類まれな才能と母親のたっての希望によって、バレエの道に進んでいく。
バレエ学校の学費を捻出するために父と祖母は海外へ出稼ぎに行って家族はバラバラに。
彼は、家族全員の希望の星として、バレエの練習に励むしかなかった。

才能に溢れ、それを伸ばすために家族全員が協力する。
一見理想的に思える環境であるが、彼にとってはとてつもない重圧だったに違いないし、そのことが、彼に「子ども」でいさせることを許さなかった。
映画を観ていて思うのは、10代前半のはずの彼の映像が、まるでその年齢に見えない。
19歳でロイヤルバレエ団の最年少プリンシパルになったというニュースも、早熟すぎた彼の半生を観てからだと驚きが半減する。
我々のように普通の子ども時代を送った人間と同じ年齢感覚でものを語ってはいけない気がしてしまうからだ。

しかし、彼の頑張り虚しく、家族は空中分解してしまう。
彼は目標を失って、徐々に心を病んでいく。
そして「子ども」をやり直すようにやんちゃな時期を過ごして、最終的に普通の生活を願うに至る。

 

僕はこの様を観ながら、宇多田ヒカル氏のことを思い出していた。
彼女もまた、弱冠15歳で鮮烈なデビューをして日本の音楽シーンをいっぺんに塗り替え、その後日本ではずっと天才少女として扱われ続けた。
そしてその果てに、彼女もまた「普通」を求めて休むことを選択した。
ポルーニン氏も宇多田氏も、もっと言えばフィギュアの浅田さんも、個々に事情は違えど、似た道を辿っているように見える。

僕たちは、割と簡単に「天才」と言う表現を使って、才能を持てはやすことが多い。
しかし、それはある意味で、自分との間に線を引く行為であって、失礼なこととも言える。
椎名林檎氏の「凡才肌」という楽曲にも以下のような歌詞がある。

天才等という言葉が突き放す

素知らぬ顔して

冒涜だよ

そしてその冒涜の果てに、子ども時代の搾取に加担してはいないだろうか。

数年前にこんなことがあった。
広瀬すずさんが、「とんねるずのみなさんのおかげでした」の人気コーナーである「食わず嫌い王決定戦」に出演した際、「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったのだろう」という、スタッフを馬鹿にしたような発言をして大炎上した。
当時、彼女は16歳だったと記憶している。
勿論、他の人の職業を馬鹿にして良いとは僕も思わないが、実に「16歳らしい」発言だと感じた。
周りの大人が窘めれば良い話で、少なくとも不特定多数から執拗にバッシングされるようなことではないだろう。
「子ども」はそもそも不遜なものだし、そう振舞えなくさせる社会はとても息苦しいと感じる。
彼女を叩いていた人たちは、そんなにも立派な子ども時代を送っていたのだろうか。

彼らは、文字通り人生を懸けて、作品を我々に提供してくれる。
消費者である我々は、所詮、彼らの一生の結果として現れたものにしか関われない。
それを噛み締めて、惜しみない拍手を送るか、あるいは批判することくらいしかできない。
彼らの人となりや境遇を否定しても何の意味もないし、まして加害者になってはならないと思う。

 

本作、ドキュメンタリーとしては珍しいほどに、極めて分かりやすく作ってある。
観客にこのように理解してほしいという作り手の意図が明確で、彼の苦悩についても推測する余地を与えない位にはっきりと言葉に出して彼に語らせている。
一見家庭内に閉じている苦悩も、その向こうに「貧困」や「格差」、「移民」の問題が透けて見えるという構造は良かった。
でも、人間の抱えるものは、本来それほど分かりやすいものではないはずだとも思う。
これを観たからと言って、彼のことが丸ごと分かったような気になることは危険なことだし、確かに本作を観ると彼のパフォーマンスの映り方は大きく変わるけれども、それが果たして良いことなのか、というと微妙な話だ。
面白い作品ではあったけれども、個人的にドキュメンタリー映画としてはいまいちだった。