童貞見聞録

アラサーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

煙草×映画

最近またタバコ税が話題になっている。
僕自身は愛煙家ではないし、喫煙をしたことすらない。
ただ、分煙はきちんとした方が良いと考える一方で、昨今の喫煙者に対する過剰なバッシングは少しやり過ぎではないかと感じている。

かつて僕が学生だった頃、居室のあった建物の一階フロア(外)に喫煙スペースが設けられていた。
暑かろうが寒かろうが、喫煙者はその場所に行って吸っていたのだが、ある日、そのスペースが変更になった。
何でも、一階で吸っている煙が上の階まで登ってくるから迷惑だ、ということらしい(冷暖房が完備された建物内で窓を開け続けている人がいたことに驚いたが)。
それからは、喫煙スペースが屋上に設けられ、屋上の入り口を事前登録したICカードで開錠しなければ吸えなくなってしまった。
ところが、これでも終わらず、今度は喫煙を終えた彼らがエレベーターで降りてくるため、直後のエレベーターが煙いという苦情が入ったのだ。
しばらくエレベーター内に空気の汚染度を測るマーカーのようなものが設置されていて、何て馬鹿げたことに金を使っているのだろうと思ったものである。
それ以降はどうなったのか確認していないが、きっと碌なことにはなっていないだろう。
確かに煙草の場合は、副流煙による健康被害などがあるために難しいのは理解するが、ここまで喫煙者を追い込む必要があるのか、と疑問を持ってしまう。

僕が、愛煙家でもないのに喫煙者の肩を持つのには理由がある。
映画における煙草の表現が大好きなのだ。
極端なことを言うようだが、煙草の表現が良い映画に外れなし、位に考えている。
今回は、「喫煙する権利」を守るための世間に対するアピールの一つとして、映画内における煙草の魅力をまとめておこうと思う。

 

映画表現としての煙草には、少なくとも3つの効果があると考えている。
それぞれについて、例を出しながら説明したい。

1."儚さ"の表現としての煙草

煙が揺らめいて、風に流されながら次々と形を変え、やがて消えていく。
何となく頼りなげで儚い印象を残す装置として、煙草は抜群の威力を発揮する。
健康に害があるという点では、自ら死期を早めているようなところがあるので、喫煙者自身の人生の儚さや諦めのようなものも透けて見えてくる。

この種の表現では、特に子供が喫煙する映画を推したい。
幼い子どもなのに煙草を吸う、というのがたまらなく刹那的であり、その行為一つでキャラクターの境遇や抱えているものの大きさを伝えてくれる。
「レオン」の幼いナタリー・ポートマンの喫煙シーンが有名だが、ここではもっと古い映画で、「ペーパー・ムーン」を紹介したい。


「ペーパー・ムーン」Paper Moon(1973米)

母親を亡くした少女アディと詐欺師のモーゼという凸凹コンビのロードムービーだ。
アディ役を務めたテイタム・オニールは、モーゼ役のライアン・オニールの実の娘であり、本作で史上最年少でのアカデミー助演女優賞受賞を果たしている。

上のVTRでは一瞬しか映らないが、アディの喫煙シーンはなかなか強烈な印象を残す。
彼女は基本的には不愛想だし、子供らしい素直な笑顔を見せたりすることがほぼ無い。
世知辛い世の中を己の知性で乗り越えて、文字通り大人たちを煙に巻きながら生きている。
そんな彼女を象徴するのが、まさに煙草を吸うシーンで、だからこそモーゼとの関係が進む中で段々と印象が変わっていくのが大変味わい深い作品になっている。
ちなみに、当たり前だけれども、撮影で使っていたのは偽物で、レタスの葉を巻いたものらしい。

2."弱さ"の表現としての煙草

煙草の特徴として、その強い中毒性が挙げられるだろう。
酒、麻薬など、同じく中毒性の高いものと同じく、煙草は喫煙者の「弱さ」を映す道具としても極めて優秀だと思う。
怒りを抑えるための煙草、焦りを誤魔化すための煙草、悲しみを紛らわすための煙草、痛みを忘れるための煙草、寂しさに気付かないための煙草。
一種の逃避と言えると思うし、煙草自体が体に負担をかけることなので、自傷行為と言っても良いかも知れない。
とにかく、喫煙シーンはキャラクターの「弱さ」の部分と密接に関係している。

こちらも枚挙に暇がないほど良い例があるけれども、個人的に最も煙草遣いがうまいと思っているフィンランドの巨匠アキ・カウリスマキ監督を挙げたい。
彼の作品はどれも素晴らしいが、ここでは、敗者三部作と呼ばれる作品の3番目「街のあかり」を紹介する。

街のあかり [DVD]

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Lights In The Dusk trailer

ちっぽけなプライドと野心を胸に、警備員の仕事を続けながら貧乏に耐える孤独な男コイスティネンが、世の理不尽を全て背負わせられたように悉くへし折られていく、というストーリー。
それだけ聞くといかにも消耗しそうな気がするけれども、アキ・カウリスマキ作品特有のシュールなユーモアと間のとり方で、決して暗いだけにならない。
そして、全てを失ったコイスティネンは、彼が救った者たちと彼を見つめてきた者たちによってもう一度命を与えられる。
実は、本作が僕にとっての初めてのカウリスマキ作品だったのだが、観終わってしばらく動けず、一生心に残り続ける一作になった。
この一本に、「人間性の回復」というキャッチを付けたコピーライターは本当に優秀だと思う。

カウリスマキ作品では全てに共通することなのだが、とにかくキャラクターの喫煙シーンが多い。
本作でも、主人公コイスティネンは勿論のこと、とにかく出てくるキャラクターが皆、スパスパ吸いまくる。
これは、それぞれがそれぞれの「弱さ」を抱えている証拠だ。
キャラクターによって、その「弱さ」が、孤独であったり強がりであったり罪悪感であったり不器用さだったりする。
漂う煙が、カウリスマキ作品特有の余韻を持たせる時間の使い方や表情の乏しい感情表現と相まって、どの喫煙シーンも心を掴んでくる。

カウリスマキ作品は音楽も素晴らしいので、是非、多くの人に体験してもらいたい。
ちなみに音楽では、「街のあかり」の前作「過去のない男」にて、主人公が夜行列車の中で食事するシーンのバックで流れるクレイジーケンバンドの「ハワイの夜」が最高だ。


crazy ken band hawaii no yoru

これが聴こえる中、難しい顔をしたフィンランド人が黙々と寿司を食べるシーンは、それだけで一見の価値がある。

3."身勝手さ"の表現としての煙草

煙草は、喫煙者本人だけでなく、副流煙によって周囲の人の健康も害すると言われている。
この点こそ、まさに、喫煙者の立場を弱くさせている最も大きな原因である。
非喫煙者にとって、煙草は「迷惑」であり、喫煙者は「身勝手」であるように映る。
これもまた、煙草の持つ表現の一つとして抜群の効果をもたらしてくれる。

例としては、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を挙げたい。


風立ちぬ 特報

公開されてすぐの頃、大学院の後輩がこの作品に対して酷く怒っていたのが印象に残っている。
彼は、彼女と一緒に観に行って、主人公の二郎が結核に罹った奥さんのすぐ傍で煙草を吸うシーンに「あり得ない!」と思ったらしい。
その後、少し経ってから僕も劇場で観て、彼の言い分を理解すると同時に、だからこそ、このシーンはこのままじゃないとダメだと感じた。

風立ちぬ」とは、お互いに極めて身勝手な夫婦の物語だ。
二郎は、自分の開発が結果として何を産むのか分かっていながら、それでも夢と野心を貫こうとする。
というか、自分でもそれを止められない性質の人だ。
それは、奥さんである菜穂子も同じである。
自分の病のことも二郎の性質のことも、全部理解しながら、それでも二郎への思慕を捨てられずに、むしろ二郎を巻き込むような形で結婚を果たしている。
そして、自分がいない未来を一人で二郎に生きさせようという身勝手さ。
ほとんど呪いに近いと思う。
でも、恋愛とはそもそもエゴイズムのぶつかり合いであるわけで、彼ら二人の関係は、人間の普遍的な結びつきを象徴的に表現したものと考えることもできる。

その視点に立つと、件の喫煙シーンは、まさにその「身勝手さ」が端的に表れたシーンと言える。
二郎は、菜穂子の病のことはもちろん分かっていながら、それでも煙草を吸うことを止められないし、止める必要はないと考えている。
菜穂子は、その煙によって自分の死期が近づくことを分かっていても、煙草を吸う二郎が好きだし、いっそ彼の吐く煙で死にたいくらいに思っているかも知れない。
後輩くんが怒っていた点は先刻ご承知の上で、お互いの思惑にお互いを巻き込んでいる。
彼には共感してもらえないかもしれないが、僕は秀逸な煙草表現として、とてもこのシーンは気に入っている。

終わりに

誤解されないように、もう一度書いておきたいと思うが、僕自身は喫煙者ではないし、道でもレストランでもバンバン煙草を吸うべし、などとは全く考えていない。
ただ、過剰なたばこ税など、行政が、喫煙者と非喫煙者の対立を煽るような、数の力をバックに少数派に負担を押し付けるやり方をとるのはいかがなものかと思うのだ。
こうした傾向が続けば、そのうち、映画の中の煙草を含む「文化的な喫煙」も自由にできなくなってしまうかもしれない。
というか、漫画やテレビなどでは、既にそういった規制が入り始めているだろう。
面白いものが産まれる自由な土壌は、何としても確保しておくべきだと思う。