童貞見聞録

アラサーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

否定と肯定

観に行きたいと思っていたのに都合がつかず、公開終了間際に滑り込むことができた。

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映画『否定と肯定』予告

歴史修正主義が蔓延るいま、絶対に観ておくべき映画だろうと意気込んで観に行った。
当初は、歴史修正主義の嘘がドラマティックに暴かれて溜飲が下がる、といった映画を期待していた。
ところが、その予想は良い意味で裏切られることになった。
この作品は、もっと重要なメッセージを秘めている。
多くの方がレビューを載せているが、僕の言葉でもまとめておきたい。

 
本作は、1996年に実際に行われた裁判の模様を、徹底的に事実に基づいて再現することにこだわった作品である。
簡単に裁判の内容をまとめておく。

本作の主役デボラ・リップシュタットは、1993年にホロコースト否認という現象についてまとめた本を出版、その中で、ホロコースト否認論者の急先鋒であったデイヴィッド・アーヴィングを痛烈に批判した。
これに対してアーヴィングが、イギリスの高等法院に対して名誉棄損罪で訴えた。
イギリスでは、被告側が立証責任を負うため、リップシュタットは弁護士チームと共に、裁判においてアーヴィングの説が誤りであることの証明を求められることになる。

 

歴史修正主義者とどう戦うべきか。

施政者が堂々とフェイクニュースを引用し、公的な記録は隠匿され、扇動政治家が跋扈。
そんな現代において、歴史修正主義への対処は、まさに喫緊の課題であると言える。
本作は、その対処法の一つを間違いなく提示している。

ポイントは、この戦いの当事者が原告と被告だけではない、という点だろう。
もう一人、この戦いを見守る大衆(あるいは我々)の存在が重要になる。
何故なら、歴史修正主義者の目的は、ある意味で、裁判に勝つことではないからだ。
勿論、裁判も勝てた方が良い。
でもそれ以上に重要なことは、いかに、自説を社会に蔓延させるか、という点にある。
つまらない言い方をするならば、「目立つ」ことこそが彼らの目的なのだ。

だから、本作において被告であるリップシュタット側は、驚くほど淡々と裁判を進めていく。
ホロコースト被害者の証言も、芝居がかった弁論も、被告であるリップシュタット本人による反論すらもない。
ただ粛々と、アーヴィング説の矛盾を挙げ、彼自身の差別主義をあぶり出し、訴えが不当であることを証明していく。
リップシュタットの代理人として法廷に立った法廷弁護人リチャード・ランプトンはアーヴィングと目も合わせなければ、閉廷後に握手をすることもない。
何故なら、アーヴィングの説は取るに足らない嘘であり、同じ土俵に立つこと自体が馬鹿げているからである。

仮に、派手にバトルを展開していたらどうなっていたか。
パンフレットにおいて、憲法学者の木村草太氏が触れている。
我々のような大衆は、そのバトルをメディアを通して眺めることになる。
原告と被告の主張が並列に置かれて、あたかも一つの事象に対して二つの見解があるかのように見えてしまう。
二つの見解ではなく、「事実」と「虚偽」であるにも関わらず。
アーヴィングの狙いはまさにそこにある。
だからこそ彼は、狡猾にも、被告側に立証義務のあるイギリスで裁判を起こしたわけだ。

面白いのは、映画的演出がむしろアーヴィングの側にある、という点だ。

可愛い娘、抗議団体から投げつけられる卵、たった一人で迎える論戦。
どれも、映画で良く見るシーンで、大体は主人公の演出に使われるものだ。
自分で証言しない、目を合わせない、握手を拒否する、というのは、むしろ敵役のテンプレートだ。
ところが、本作ではその関係が反転している。
これは、そうした「演出」は歴史修正主義者たちによって悪用されており、我々のような大衆は「演出」に対してもっと懐疑的になる必要があることを示唆している。
正しいか正しくないかに、本来ドラマは必要ない。

社会的意義云々を置いておいても、単純に法廷劇として面白い。
静かな作品ではあるが、手に汗握るほどのスリルで一瞬たりとも目を離せない。
台本も無駄がなく、かなり洗練されている。
そして何と言っても、アーヴィングを演じたティモシー・スポールが素晴らしい。
ハリー・ポッターシリーズでピーター・ペティグリューを演じていたので覚えていたが、本作でも圧倒的な存在感を示している。
パンフレットによれば、たった一人で裁判に臨む孤独を表現するために、撮影中も他のキャストやスタッフとのコミュニケーションも控えていたらしい。
何とか公開終了に間に合って本当に良かった。