童貞見聞録

アラサーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

さよならの朝に約束の花をかざろう

相変わらず忙しいのだが、その合間を縫って映画を観に行ってきた。
「あの花」や「ここさけ」といったヒット作で有名になった脚本家・岡田麿里さんが監督も務めたという最新作である。
実は、「あの花」も「ここさけ」も何となく観る気になれなくて、今回が初めて観る岡田作品になった。
ちなみに本作は「さよ朝」と略すそうだ。


映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』予告編

sayoasa.jp

最初に述べておくと、僕は、本作を観ている内にどんどんと体内に毒素が溜まっていくのを感じた。
要するに、全く乗れなかった。
そればかりか、むしろ怒りが募っていった。
君の名は。」ですらここまでの感情は湧かなかったのに、これはどうしたことか。
理由を良く考えて、おそらく「マイノリティ」の扱い方に対する圧倒的な配慮のなさにあるのだろうと気が付いた。
今回はその視点から、本作の感想をまとめておくことにする。

このように書いているので当然だが、この記事はかなり辛辣なことを書くことになる。
何かの間違いでこの記事に行きあたってしまった本作のファンの方、不快にさせる可能性が高いのでなるべくこれ以降は読まないことを薦める。
また、意見を述べる都合上、オチに近い部分を書いてしまうことになる。
これから鑑賞を控えている方も、読まない方が良いだろう。
それでも読んで、それは違うよ、と思うことがあれば是非コメントを残してもらいたい。
僕も、正直、自分の感性は歪んでいると思っているので。
映画館でも、すすり泣きが聞こえる中、自分だけが違和感を募らせている気がして、久々に孤独を感じた。

 

本作の主人公マキアは、イオルフの民という少数民族の少女だ。
イオルフの民は、10代くらいの見た目のまま、数百年という長い時間を生き続けるという特殊な体質を持っている。
彼らは、伝説の存在として、ヒビオルと呼ばれる布を織りながら、人里離れた場所で静かに暮らしていた。
ところが、ある日、彼らの長寿の血と神秘性を王族の権威に利用するために集落が襲われ、イオルフの民は散り散りになってしまう。
命からがら逃げのびたマキアは、人間に交じって生きていかざるをえなくなり、友人であったレイリアは、王族に捉えられて王子との結婚を強制されてしまう。

このような話であるために、どうしたって、絶対的多数派である「普通の人間」と少数派である「イオルフの民」という構図が浮かんで、両者の関係がストーリーの重要な構成要素になっている。
僕自身が根強いマイノリティ意識があることは置いておいても、観客は「イオルフの民」に感情移入するのが自然だろう。
そもそも主人公がマイノリティ側に設定されているということもあるが、彼らを必要以上に「可哀そう」に描いていることが大きい。

でも、この「可哀そう」が曲者なのだ。
本作において、主人公を含む「イオルフの民」のキャラクター達は、行動や言動が極めて情動的で、彼らの意に沿わない他者の声は無視される傾向が強い。
そして、それらが許される理由が、全て「可哀そうだから」になっている。
少なくとも僕にとっては、そうとしか受け取れなかった。
当事者の一人だと思っている立場からすると、これは本当に厄介だ。
「『可哀そう』ならば何をしても良いと思っている」と思われては困るのだ。
彼らの振る舞いの良し悪しと境遇の悲惨さは、全く別の問題のはずだ。
僕には、どうしても彼らの行動・言動は許容できないし、それを有耶無耶にする言い訳に「マイノリティ」が利用されている気がして、どうにも不快感が残る。

 

具体例を出そう。
僕が特に受け入れがたいと思った点が二つある。

一つは、本作の主人公マキアに関する部分。
マキアは、生まれ育った村から逃げのびる過程で、賊に襲われて親を殺されて泣いていた乳飲み子を拾う。
エリアルと名付けられた子どもを育てながら、マキアは人間たちの中で懸命に生きていく。
ところが、当然ながら「普通の人間」であるエリアルはどんどんと成長して、少年になり、青年になっていく。
一方のマキアは、少女のまま見た目が変わらない。
二人は、周囲の目を気にして各地を転々としながら何とか生活を続けていく。

映画の大部分が、このマキアとエリアル「親子」の交流に割かれているのだけれども、マキアにとってのエリアルが、余りにも「都合が良い」のだ。
元々、村を追われたマキアにとって、エリアルの存在は精神的支柱となっている。
もちろん、マキアのおかげでエリアルは生き延びられたのだが、それと同時に、マキアもまたエリアルによって生かされている部分が大きい。
にもかかわらず、マキアの特殊な事情でエリアルは多大な負担を強いられる。
上にも書いた通り「可哀そうな」マキアの事情には同情の余地があるが、エリアルにとっては、本来関係のない話のはずだ。
実際の親子であれば、当然、子どもはそれに反抗して離れたがるもの。
作中、エリアルは確かにそうした素振りを見せるものの、結局はそれも愛ゆえであることを早々に明かしてマキアを甘やかしていて、全く実在の「親子」感がない。

この「都合のよさ」が、「親子」とはどうしても思えなかった。
一体何なのだろう、と考えていたところで、とある友人の考察を聞いてハッとした。
「ペット」に近いのだ。
自分よりもはるかに寿命の短い命を育てて交流する。
振る舞いを自分にとって「都合よく」解釈して、勝手に傷ついたり感動したりする。
まさにペット。
ペットに対する愛情をあたかも「親子愛」のように描いていることが気持ち悪さの正体なのだと思う。
結局、子どもを、自分とは別の一人の人間として認められていない、ということだろう。

終盤、年老いエリアルの元を訪れたマキアが、彼の家族を差し置いて最後を看取るシーンがある。
正直このシーン、僕は噴飯ものだと思ったのだが、二人の関係をペットと飼い主として考えれば理解できる。
要するに、ペットを亡くした人ならば誰しもが願うこと、「幸せだったかどうか」を聞きたかったのだ。
ただ、それはある意味、究極の「都合の良い」設定だ。

 

二つ目は、本作もう一人の主人公、レイリアに関することだ。
彼女は、マキアとちょうど対になる存在である。
おっとりして受け身なマキアに対して勝ち気で積極的なレイリア。
血の繋がらない人間の子どもを育てるマキアと、望まぬ結婚の果てに産まされた娘を早々に取り上げられて会うことも許されないレイリア。
マキアの方の「親子」観に疑問があった分、中盤までの彼女の物語はむしろ素直に受け入れられた。
途中までは間違いなく、過酷な運命の中にあっても拭えない「母性」みたいなものが描かれようとしていた。

ところが、最後の最後に、ある意味どんでん返しと呼んでも良いような展開が待っている。
レイリアを捕えて幽閉していた王国は、他国に攻められて陥落。
戦火のなか、ようやく会うことがかなった娘メドメルに、彼女は去り際こんなことを言うのだ。

私のことは忘れて、私も忘れるから。
あなたのことはヒビオルにも織らない。
綻びだと思って生きていく。

このシーンは、レイリアが「母」からイオルフの「少女」に戻る象徴的なシーンだということは理解した上で、敢えて指摘したい。
この台詞は、「母性」云々をとりあえず置いておいたとしても、余りにも配慮に欠けた台詞ではないだろうか。
メドメルは、母に捨てられるばかりか、忘れられてしまうのだ。
こんな身勝手な宣言があるだろうか。
それに、メドメルを待ち受ける未来はどう考えても明るくない。
人間と「イオルフの民」のハーフな上に、敗戦国の姫なのだ。
その意味で、本作において最もマイノリティな存在だと言える。
(実際、彼女は実の父親にすら忌み嫌われている描写がある)
つまり、このシーンは、単にレイリアが心無いことを言ったというだけでなく、マイノリティが、よりマイノリティに後ろ足で砂を浴びせかけるという何とも鼻持ちならないものになってしまっている。
ところが、メドメルは怒ることもなく母を見送っていて、やはりここでも主人公(レイリア)が甘やかされている。

 

「可哀そう」であれば、彼らの身勝手さ・不義理は許されるのか、甘やかして良いのか。
僕は、全くそうは思わない。
特にマイノリティとしては、余計にその部分に気を付ける必要があると思っている。
何故なら、それが生き死にに直結する場合があるからだ。
おそらく、本作は、感傷主義的な展開をドラマチックに演出するための舞台セットの一つとして、マイノリティという属性を付けたのだと想像する。
でも、その扱い方が余りにも杜撰に思えて、危機感に近い怒りを感じてしまった。
全ては僕の思い込みで、酷く偏った見方をしているからかもしれないが。

そうは言っても、単純にアニメーションとしては極めて高品質な作品になっている。
美しい背景に躍動感あふれる演出、乳児の声。
随所にこだわりが感じられて、そういった技術的な部分については本当に素晴らしかった。
残念ながら、僕にとって本作の脚本は到底受け入れがたいものであったけれども、他の人がどんな感想を持つのかはとても気になるところだ。
ようやく自分の中の感想も何となくまとめられたので、これから他の人のレビューも読み漁りたいと思っている。