童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

博士課程に進むということ

たまには、真面目な記事でも書いてみようと思う。

自分の人生を振り返ってみて、幾つかターニングポイントはあったけれども、中でも博士課程への進学は特に大きかったと思っている。
実は、当時それほど深く悩んだ上で決めたのかと言えば微妙で、でも今から考えれば間違いなく転機であった。
重要なことを何となく決めてしまった経緯と結果とともに、ほんの少しだけ、博士課程進学を検討する上での注意点をまとめておく。

 

昨今の理系の大学生にとって、大学院に進学すること自体はさほど珍しいことではない。
通常の場合、大学院は2年の修士課程+3年の博士課程の合計5年で構成されていて、修士号まで取得してから就職する学生は割と多い。
これが、博士課程となるとぐっと人数が減る。
分野にもよるだろうが、おそらく1割以下になるだろう。
考えてみれば当然で、社会に出るのがさらに3年遅れるのだから、経済的に余裕がないとなかなか難しい選択なのだ。

さて、僕はそんな博士課程にうっかり進んでしまったのだが、それには特に強い理由がなかった。

元々、僕は修士号を取得したら公立高校の教師になろうと思っていた。
学部4年の時の教育実習で、「大変だけどこの仕事は辞めないだろう」という手ごたえがあったからだ。
何より、当時の自分が専門にしていたことを背景とした理科教員はほぼいないので、割と面白い先生になれるのではないかという予感があった。
指導教官にも、大学院に進学する前から伝えていて、大学院1年目くらいはそうなるものだと思っていた。

その予定が狂ったのは、まず、1年目の研究がほとんどうまくいかなかったことだ。
元々興味を持って進めていた研究は悉くうまくいかず、研究は決して楽しいだけのものではないということを嫌と言うほど実感させられた。
手伝いでやっていた研究の派生で何とか結果を出して修士号取得に漕ぎつけた、という感じであった。
正直、1年目の冬頃に指導教官から博士課程への進学を提案された時には、既に「研究が好き」などとは軽々しく言えない位に辛い思いをしていた。
それでも何故進学を選択したかと言えば、うまくいかなかっただけに悔しかったのかも知れない、と今は思う。
というか、途中で研究を放り出して逃げるような気がしてしまったのだ。
もし、最初の研究がうまくいっていたら、多分そのまま高校教師になっていた気がする。
指導教官の「高校教師になるにも学位を持っていたら良い」という言葉に唆されたというのも否定できないが、やはり上記のことが一番大きかった。
いよいよ博士号取得がかないそうになった時にも、同様にここで投げ出すのは如何なものかと続けてしまい、結果現在に至っている。

 

僕はよく、現在の研究者という仕事について「辞められないバイト」という表現を使っている。
自分でも言い得て妙だと思っている位で、まさにそんな感じだ。
元々は軽い興味で歩き始めた研究者への道で、あれよあれよという間に脱出路を見失ってしまった。
同期や先輩たちのように「研究者になりたい」という強い意志があるわけではなかった。
やってみたらうまくいかなくて向いていないとも思ったけれど、それが悔しくて続けていたらいつの間にかこうなっていた。
今や、最初に興味を持っていたテーマからはかけ離れたことを研究している。
勿論、どんなテーマも面白いところはあるので決して苦痛ということはない。
でも、自分で選択したという実感が乏しいので、どこかで「本業じゃない」という感覚が拭えない。

このことは、割と長い間、僕のコンプレックスになっていた。
周りには、本当に研究が好きでそれを仕事にしようという人間が多くいた。
しかも、彼らの内の少なくない人数が、諸々の事情で諦めて泣く泣く就職していった。
本来、博士号を持つべきなのは、研究者として生きていくべきなのは、彼らであって僕ではないのではないか。
そもそも、こんな流されるように研究を続けてきた人間が、場違いなところで生きていけるのか。
申し訳なさと不安とで、20代は結構辛かった。

今は、その研究者としての「生き辛さ」も大分緩和してきている。
大きかったのは、今の仕事が単純な研究者ではなく、他の研究者のサポートが主な仕事の一つになっていたこと。
自分に熱い思いがなくても、他の人の情熱を手伝えば良いのだ。
そして、最近は、自分のような受動的な研究者もこの世には居て良いのではないか、と思い始めている。
良くも悪くもこだわりがないので、あまり苦にならずに幅広い分野の研究を対象に出来る。
これは、少なくとも今の仕事にとってはかなり有利な特性だった。
30を過ぎてようやく研究者としてのアイデンティティが確立されてきた感がある。

 

というわけで、僕自身が博士課程に進学した理由とその顛末をまとめてみた。
最後に、自分自身が博士号をとる上で重要だったと思うことを書いておこうと思う。

三つある。

一つ目は、指導教官との相性だ。
はっきり言って、これは博士号取得にとって絶対必要条件だ。
どんなに優秀な学生でも、指導教官とうまくいかないとドロップアウトしてしまう。
そんな例を幾つも知っている。
ただ、人によって千差万別なので、よくよく注意して選ぶしかない。
放任主義なのか、管理主義なのか。
その分野において、どれ位のポジションの人物なのか。
信頼関係が築けるか。
人を見る目だけは自信を持っているので、指導教官選びは本当にうまくいったと思う。

二つ目は、実家暮らしだったことだ。
うちの家族は、父親が博士号に並々ならぬ思い入れがあって、むしろ自分よりも博士課程進学にこだわっていた。
そのため、博士課程への進学を決めたときも当然のこととして受け入れられ、衣食住の心配なく3年の延長学生生活を送ることができた。
これはかなり幸運なケースだったという自覚はある。
理学の博士号なんて、特に就職に役に立つわけでも給料が高くなるわけでもない。
アカデミックポジション(大学教員や研究施設の職員)が約束されているわけでもなければ、むしろ向こう10年くらい不安定な職業事情に振り回されることの方が多い。
さっさと就職して安定する方が、余程親孝行だと言える。
博士課程への金銭的な援助制度もいくつかあるがいずれも微々たるもので、例えば都内で一人暮らしの場合にはかなり厳しい家計でやりくりすることになる。
バイトして時間をとられ、それが元で研究が行き詰ったりして、一人暮らしの部屋から出てこなくなる学生は少なくない。

最後は、研究人口の少ない分野を選んだことだ。
自分の専門分野は、極めてニッチという程ではないけれども、全国の同業者は大体顔見知りというレベルの規模だった。
従って、そもそも新人が少ないために、どの学会や研究集会に行っても期待の若手として可愛がられた。
研究人口が多い業界では、余程目立った成果を出すか、強力な後ろ盾でもない限り、そもそも顔すら覚えてもらえない。
アカデミックな分野においてコネというのは色々な意味で重要で、味方は多ければ多いほど良い。
実際、同業者の中でも特に親しくしていた某大学の先生が、僕の博士論文の外部審査員に当たっていた。
狡いことをしたわけでは決してないが、互いにどんな研究をしてどんなことを考えているか事前に知っているということは極めて大きい。
博士取得以降も、業界の色々な方から公募の情報を貰えたり、ちょっとした学会に講演を依頼されたり、とにかく助けられることが多かった。

 

いまだに、自分が本当に研究が好きなのかどうかは分からないままでいる。
決して嫌いなわけではない。
ただ、辛いことも(の方がむしろ)多いので、手放しで好きだと断言することはできない。
研究していて迷いなく喜びを実感する瞬間は、学会で他の研究者と話しているときと論文が受理されたときくらいだろうか。
それでも、研究者としての日々を何となく楽しげに暮らせているのは、悪い意味でのこだわりが少なかったからとも言える。
邪道であることは認めるけれど、こんな博士号持ち研究者も居るのだ。