童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

褒められるということ

数日前、今までにない通知を受けた。

nemusanさんに自分の言葉を探す旅で言及されました。

ブログを始めて早2年が経とうとしているところへきて、初めての言及。
今まで如何に他のブロガーさんたちと交流してこなかったが窺い知れる。
ドキドキしながらたぬ吉さんの該当記事を読み進めると、恐れ多いことに文章をべた褒めしていただいていた。
さらに「更新が楽しみ」という麻薬のような言葉まで。
一つ前の記事の後に参加してみたゲイブログのグループから訪問されたらしい。
正直、自分はゲイに分類されるべきなのかも良く分からないので、場違いなのではと気がかりだったのだけれども、うっかりご褒美を頂戴してしまった。

恥ずかしながら、すごく舞い上がってしまっている。
たぬ吉さんの文章を覗いてみると、表現力・構成力ともに抜群でかつ話題も非常に面白い。
そう思うほどに一層、褒められた事実が脳を甘く浸食してくる。
相思相愛ってこういうことを言うのだろうか、などと馬鹿なことを考えたりしている。

とは言うものの、人から褒められてここまで素直に嬉しかったことは久しぶりだ。
僕は、元来褒められることが凄く苦手で、相手を訝しんだり居心地悪そうにしたりと極めて可愛くない反応をする。
それが、今回はほぼ手放しで喜んでいる。
良い機会なので、その理由について考えてみた。

 

そもそも、何故褒められるのが苦手なのか。
多分二つパターンがある。

一つは、どうでも良いことを褒められる場合。
当然だが、自分でどうでも良いと思っていることを褒められたところで何も嬉しくない。
特に身体的な特徴。
背が高いだのまつ毛長いだの、別に何か努力したわけでなし、心底どうでも良い。
他に褒めるところが思いつかなかったのだなあ、と逆に傷つくことすらある。
あと、これの亜種で、本当はどうでも良くないけれども、相手が適当に褒めてくるパターン。
良くあるのは、学位についてだ。
博士号はそれなりに苦労して手に入れたので思い入れはあるのだけれども、世間的にその価値が認知されているとはあまり思っていない。
だから、「凄いですね」と言われても、そんなに分からないでしょ、と即座に脳内でツッコミが入る。
何なら30近くまで社会にも出ずに学生やってて気楽でいいですね、くらいに考えているのではないかと邪推してしまう。

もう一つは、取り繕っていることを褒められる場合。
人は少なからず、自分を良く見せようと振舞うものだけれども、僕はその傾向が強い。
子供の頃から大人の顔色を窺いながら立ち振舞ってきたがために、相手が喜ぶように答えたり見せたりするのが得意だった。
でも、あくまで「見せる」だけだから、実を伴っていない。
だから、仮に褒められても、自分のことを言われている気が全くしない。
特に中学生の頃なんか、まんまと騙されている大人に対して、見る目がないなと見下していた。
見抜かれると、いっそ安心するくらいだった。

 

文章については、完全に後者の方だった。
書くこと自体は好きだったけれども、実力も経験も全く伴っていなかった。
参考文のアレンジで何となく「それ」っぽく見える文章は書けても、中身がまるでない上によく読むと穴だらけ。
昔の文集とか恥ずかしくて読めたものではない。
それでも、当時の文章を褒める人間が存在していたのだから驚きである。
ちゃんと読んで批判をくれた人たちの方が、余程信頼できる。
文章の体をなしていないと最初に指摘してくれた父。
卒業式の式辞で「きれいごとは書くなよ」と釘を刺してくれた中学校の国語の先生。
論理の破綻を徹底的に暴いてくれた指導教官。
叱られながら、その通りだよな、と自分の文才の無さに絶望的な納得をしていた。

翻って、今回のことはどうだろう、と思ったときに、そういえばこの手の文章を人に見せたことは一度もなかったことに気が付いた。
そもそも、実生活において文章を書くときは、特定の他者が読むことが前提になる。
想定されるべき読み手が確実に理解できるように書かれなければならず、だからこそ論理が重要視される。
ところが、このブログは、ほとんど備忘録と言うか、僕自身のための文章である。
一応、読み手が意識された文にはなっているけれども、それも限りなく僕に近い「誰か」である。
そして、ブログを始めるに当たって、ここでは絶対に自分を飾る嘘を吐かないことをルールにしていた。
自分の言葉と思えないものは、極力排除してきたつもりだ。

つまり、このブログの文章を褒められるとは、何の虚飾もないむき出しの自分を評価してもらえたということに他ならない。
それはもう、実生活においては絶望的に難しくなっている。
この文章を理解できる僕のような人間が、世界に少なくとももう一人いる。
それだけでも救われた気がするのに、なおかつ「そのままで良い」と言ってもらえた(気がした)。
嬉しくないわけがなかった。

 

最後に。

たぬ吉さん、お褒め頂き大変光栄でした。
上にも書いた通り、このブログはある意味で僕そのものなので、ありのままを肯定してもらえたような気持ちになりました。
そこまで重く受け止められるとは思っていらっしゃらなかったであろうけれども、多分、結構人生に影響を与えるレベルの出来事だった気がします。

こんな風に即座に反応したり、急に更新が増えたり、いそいそと購読者になりにいったら、現金な奴と幻滅されるのではないかと下らないことを心配している。
いや、今まで通り、マイペースにブログ活動はしていくつもりではあるけれども。