童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

万引き家族における生存戦略

万引き家族」を観てきた。
観たのはもう2週間も前で、僕なりの感想も煮詰まりつつあるのだけれども、一応ここに吐き出しておこうと思う。

作品が公開されればほぼ毎回劇場に足を運んできた是枝監督の最新作。
既に、カンヌ国際映画祭でのパルムドール受賞で注目を集め、日本でもかなり広く公開されているようだ。
こうした作品が多くの人の目に留まって議論を産むきっかけになることは、単純に、監督の一人のファンとして嬉しく思う。
だからこそ、僕自身も、自分の感想をまとめておきたい。
僕なりにネタバレには気を付けるつもりでいるが、少しでも気になる方は、読まずに映画館へ向かわれることをお勧めする。

gaga.ne.jp
映画「万引き家族」本予告編

物語は、まさにフーテンと言った風情の父親らしき男・治と、まだ顔にあどけなさが残る息子らしき少年・祥太の二人が、慣れた様子で連携して万引きを行うところから始まる。
万引きを終えた二人は、その帰り道、団地の廊下でうずくまっている少女を拾う。
寒空の下で凍えていた少女は、二人に連れられて家まで行くと、そこにはさらに、母と祖母、母の妹らしき3人の女性が暮らしていた。

一見すると、普通の「家族」が、虐待を受ける不幸な少女を保護したように見える。
しかし、どうもその「家族」も、普通ではない雰囲気を纏っている。
物語が進むにつれて、その内情が一つ一つ明かされていき、一家に来るべき日が訪れる。

 

僕が、本作を観て最初に思ったことは、これは他人の物語ではなく自分の物語だ、ということである。

これは常々感じていることなのだが、「生きる」ということは、それ自体が罪を犯しているという側面はないだろうか。
人間は、農耕と牧畜が盛んになって複雑な社会を形成し始めた頃から、完全な分業体制になっている。
「誰か」が作ってくれた食べ物を「誰か」に運んでもらって「誰か」から分けてもらって生きている。
勿論、個々人がそれぞれの仕事をすることで得たお金を支払うことで、ある程度バランスは取れているはずだし、法律という名の全体の合意をクリアしている。
しかし、社会が巨大であればあるほどプロセスに関わる「誰か」は見えづらくなって、それぞれが本当に納得しているのか、揺らいでくる。
特に、研究者などという仕事をしていると良く思う。
誰の役に立つとも知れない研究をして賃金を得ているけれども、果たしてその仕事分は、僕の目の前にあるお米に関わっている人々の働きと本当に見合っているのか。
僕の働く時間給と彼らの働く時間給は、本当に公平だろうか。
悪い言い方をすれば、彼らの働きの余剰分を掠め取って生きていることにならないか。

もっと視野を広げて、生命全体を考えてみても良い。
人間は、他の生き物の作り出したものやそのものを消費して暮らしている。
他の動物も同様で、両者の間に合意なく奪って暮らしているのは、罪ではないだろうか。
さらに視野を広げると、地球という星では、誕生したときに蓄えられた莫大な熱エネルギーが長い時間をかけて放出され続けている。
生きとし生けるものは、地球の冷却過程で放出されるエネルギーと太陽から降り注ぐエネルギーに寄生しているに過ぎない。

こんな風に考えてみると、共に生きるということは、まさに共犯に他ならない。
だから、「家族」とは、生きる罪を分け合った人々、そもそも共犯関係を意味しているのではないか。
本作は、そのことを明示的に描いているだけで、この関係こそが実は「家族」の本質であるような気がしてしまう。
家族を繋いでいるのは共犯の誓いであって、約束とか同情とか、ましてや血では全くない。

 

さて、この文脈の中で、本作と非常に良く似た作品のことを紹介したい。
2011年に放送された幾原邦彦監督のアニメ「輪るピングドラム」である。
個人的に生涯ベストアニメを選ぶなら間違いなく上位に食い込む作品で、いつか改めて感想もまとめておきたいと思っている。

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輪るピングドラム 番宣CM1

高倉冠葉、晶馬、陽毬の三兄弟を巡る物語なのだが、「万引き家族」同様、彼らはある秘密を抱えて暮らしている。
三兄弟は罪を背負っていて、身に降りかかることを罰として分け合って暮らしている。
上で説明したような共犯の誓い(家族の形成)が、罪の果実である林檎を分け合うという形で象徴的に表現されている。

詳しくは是非観てもらいたいのだが、最終回、キャラクターの一人の台詞にこんなものがある。

たとえ運命が全てを奪ったとしても
愛された子どもは、きっと幸せを見つけられる
私たちはそれをするために、この世界に残されたのね

万引き家族」の中の拾われた少女・りんを観ていて、僕はこの台詞を思い出していた。
クライマックスを迎えた後のりんの心情について、映画は全く答えを与えてくれない。
それでも、彼女は一度罪を分け合った人たちに暖かく抱きしめられている。
教えてもらった数え歌を口ずさみながら一人で遊ぶ彼女を見ていると、「きっと幸せを見つけられる」と信じられる気がするのだ。
例えそれが社会的に許されないことであったとしても、共犯の誓いは、人間の生存戦略そのものなのではないだろうか。

 

ここまで書いておいて身も蓋もないのだが、僕がこの家族に感情移入してしまうのには、簡単な理由がある。
以前にもどこかで書いたが、僕は5歳で実母を亡くした後、父が再婚した相手(養母)に育てられている。
養母に家族になってくれるように頼んだのは、幼き日の僕だったらしい(と聞いている)。
つまり、普通は選べない親を、僕は選んでいる。
万引き家族」でもまさに、りんが一家を「選ぶ」という描写が出てくる。
そして、実はまさにその母(養母)とともに、本作を観に行っていた。
映画が終わるなり、身につまされると二人で話している中で、彼女が「これからも仲良く生きていこうな」と絞り出すように言ったのが忘れられない。