童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

宗教と父

「最初のニュースの記憶って何ですか?」

世代の異なる人と仲良くなった時に、僕が良くする質問の一つだ。
下の世代だと9.11だったり東日本大震災だったりするし、結構上の人はあさま山荘事件を挙げたり。
結構話が盛り上がるので、広い世代の集まる飲みの席なんかでは重宝するネタになっている。

かく言う僕はと言うと、いつも「地下鉄サリン事件」と答えている。
言わずと知れた、1995年3月20日に起きた未曾有の化学テロ事件である。
実は、同じ年の1月に阪神淡路大震災も起きていたのだが、関東に住んでいたこともあってあまり現実感がなかったのかも知れない。
サリン事件の方は、まさに事件の起きた列車の一本前にクラスメイトのお父さんが乗っていた位で、すぐ傍で起きたという実感があった。
それに、「ニュースの記憶」としては抜群のインパクトがあった。
まず、地下鉄駅を出たところに人が点々と倒れているあの光景。
それに続いて、オウム真理教なる一団の修行シーンや布教用VTR。
テレビ各局が連日放送していた上九一色村からのライブ映像。
全てが尋常ならざるものとして強烈に頭に残っている。
当時はまだ「テロ」という言葉もなく、この事件を一体どんな風に分類したら良いのか、恐ろしいだけでなく未消化な感じが日本全体にあったと思う。

 

昨日、地下鉄サリン事件から25年が経ったということで、実家のテレビに当時の映像が流れてきた。
たまたま近くにいた父と上のような話をしていたら、急に妙なことを言い出した。

父曰く、
自分は三十歳位まで、科学的・論理的に確かなものしか信用せず、その他のものはどうでも良いと思ってきた。
宗教も結婚も、全く重要視していなかった。
でも、一見不合理に見えるそれを一旦受け入れてみたら、色々なことが凄くスムーズになった。

とのことだった。

実は以前から、割と合理性を重要視する主張をする癖に、墓参りとか御神籤とかジンクスとか、比較的軽い「宗教」的なものにも変にこだわるので疑問に思っていた。
詳しく聞いてみると、なかなかヘビーな話であった。

 

父が僕位の年齢の頃、どうもかなり行き詰った状況だったらしい。
研究したいと思っていた内容は、良い指導者にも環境にも恵まれず頓挫。
やりたいことができるかも知れないと飛び込んだ民間の会社では、希望と異なる仕事で疲弊する日々。
家はと言うと、姑に疎まれて家にほとんど寄り付かない父親、隣家との領土問題で正気を失くしつつある母親、気性が荒く怒ると胃痙攣を起こす祖母。
そんな状況で、何かを変えないといけない、と思った彼は、とりあえず母親が熱心に拝んでいた仏様に手を合わせ、父親に薦められた見合い話に乗ってみたらしい。
すると、色々なことがうまくいき始めたのだそうだ。
仕事のモチベーションも変わったし、母親も落ち着きを取り戻した。

どうでも良いと思っていたし合理的ではないと感じていたけれど、ポーズだけでもそれを大事にすれば、社会に認められて色んなことをやりやすくなることがある。
宗教も伝統も風習も、みんなそれなりに意味のあることなのだ。

そう思ったらしい。
何となく偶然のような気もするが、実感としてそうだったと言われてしまうと否定のしようがない。
それにしても、まさか自分がやけっぱちの見合いの果ての産物だとは思わなかった。

 

ところが、この話はここで終わらない。
父は結婚した後、妻(僕から見れば実母)の家に住むことになるのだが、そこで宗教の影の部分を見ることになる。

実母の母親(つまり祖母)は、民間療法や健康食品、カルト宗教的なものに非常に凝る人物だった。
普段口にする食べ物について、これは体に毒、これは体に良い、とかなり細かく決めていて、近所にもその内容を説いて回っていた。
手から気を送る、という宗教じみた指圧の先生には特にご執心だったそうで、その先生の薫陶を受けて西洋医学を毛嫌いしていた。
いくら宗教を認めつつあったとは言え、流石の父も場面場面で抵抗し、かなり家庭内で対立していたようだ。

ある日、姉が犬に咬まれてしまった。
父は当然、歯形も残って痛がる姉を病院に連れて行こうとした。
ところが、祖母と実母がそれを拒否し大げんかに発展。
その末に、父親は実母を突き飛ばすような格好になりながらも姉を病院に連れて行ったそうだ。
その様子を見た姉は「お父さんがお母さんに暴力をふるった!」と思ってしまったらしい。
以来ますます父の立場はなくなってしまった。

実はその頃、祖母は、もう娘に離婚させようと思っていたらしい。
子ども二人が実母側に残れば、父は養育費をずっと払わざるをえない。
意見の合わない婿を追い出せて収入も保証される。
まさに一石二鳥の策である。
完全に父を憎悪していた姉は、その先兵のように振舞っていたらしい。

「本当にクソだったよ」

驚いた。
父がこんなに分かりやすい悪態を吐くのはとても珍しいことだった。

そんな策も、思わぬ形で潰えることとなった。
実母が死んだのだ。
死因となった病気は、現代医学では別に死ぬような病気ではない。
実際、良い先生を紹介されて治療を受け、手術をしましょうということで話は進んでいた。
ところが、本人と祖母がそれを拒否してしまった。
本人が嫌がっていることを父も止められなかったらしい。
ありとあらゆる民間療法が試されたらしいが、その甲斐もなく、実母は僕が5歳の時に亡くなってしまった。
葬式を終えた後、喧々諤々の話し合いの果てに、僕は父に、姉は祖母に引き取られることとなった。
その後の僕の足取りは別の記事に簡単にまとめられている。

 

父は、まさに宗教の天国と地獄、両方を体験した人間だろう。
この話の結びに、父は「宗教によって救われる人間は間違いなくいる、が、あの頃どうするのが良かったのかは分からない」と言っていた。
父は、いまだに姉とのわだかまりも消えず、まだ見ぬ孫もいるかも知れないのに20年近く会ってすらいない。
息子から見ても大変な人生だと思う。
それでも、やり直すことはできないのだから後悔はしていないと言う。
やはり、父は今も合理性の人なんじゃないかと思う。

この会話の後、風呂から上がった母(養母、実母没後の再婚相手)に上の話をぶつけて、「良く結婚したね」と言ったら「火中の栗を拾った」と返ってきた。
最近父が焼きいもにドはまりしていることを受けて「芋だったかも」と付け足して。
母は僕にとって救世主であり大恩人なのだが、父にとってもそうだろう。
我々父子は、母を信仰すべきなのかもしれない。
と同時に、珍しく夫婦も悪くないと思ってしまった。