童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

ワニと疎外感

最近Twitterは「100日後に死ぬワニ」の話題で持ちきりである。

毎日定時で更新され、ワニくんの何てことない日常とカウントダウン。
終わりが見えることで、一挙手一投足に暗示が見えて味わい深くなる仕掛け。
皆さん大いに楽しんだのではないだろうか。

nlab.itmedia.co.jp

その更新も、ついに100日を迎え、ワニくんの結末を知って無事に終わる、はずであった。
が、それと同時に発表された怒涛のメディア展開。
電通案件」などと揶揄され、Twitterでもブログでも、批判とその批判に対する反論との応酬が続いて大炎上の様相を呈している。

最初に断っておくと、僕はいわゆるこの「ワニ問題」について何か主張するつもりはさらさらない。
ただ、僕の中でずっとモヤモヤとあった本作に対する違和感の正体を、この炎上騒動によって期せずして掴めてきたので、それを書き留めておきたいと思ったのだ。

 

確か、友人のRTがタイムラインに挙がってきたのが最初だったと思う。
多分まだ始まって10日も経っていなかった。
カウントダウン一つでどの話数から読んでもすぐ理解できるシンプルな仕掛け。
1話1話はちょうどよく説明不足。
可愛いのに現実味のあるキャラクター。
本当に良く出来ていると思った。

ところが、作品自体は良いと思うのに、どこか乗り切れない気持ちがあったのだ。
モヤモヤした感じとしか言いようのない感覚。
実際、最後まで読んだにもかかわらず、結局イイねもしなければフォローすらしなかった。
リプ欄で熱く繰り広げられている考察やネタ合戦を見ても全く乗れず、何だか勝手に孤独感を感じてしまっていた。
皆盛り上がっているのに、自分ひとり冷めているような。
作品そのものに対する違和感というよりも、乗れない自分に対する違和感と言えば良いのだろうか。
作品の完結に続いて大論争をしている人たちも、この作品に対する熱量という点では同じだと思う。
そもそも、僕は、そこまでの熱量を持てなかった。

 

そんなモヤモヤをずっと抱えながらも、結局最終話まで読んでしまったのだが、それに続いて出てきた今回の騒動で「電通」の二文字を見た瞬間に合点がいった。
このモヤモヤの正体は、つまり、「常識的」な「普通」の価値観に対する疎外感だったのだ。

考えてみると「何てことない当たり前の日常は、本当はかけがえのないもの」なんて、広告会社が飛びつきそうなテーマである。
若手俳優オクラホマミキサー状態で毎年量産され続ける不治の病ものの恋愛映画だって、根っこに通じるものは同じだろう。
この手のテーマが厄介なのは、テーマそのものの正しさにある。
だって文句の言いようがないのだ。
「毎日を大事に生きましょう」と言われて、否そうじゃないとは言えない。

でも僕は、それを言われると窮屈に感じてしまう。

どんな風に生きていたら「大事に」生きていることになるの?
僕の生活って「当たり前」のものかな?
毎日死にたいって思って暮らしてたこともあるけど?
でもこんな風に思ってしまうのは、きっと僕が間違っているのだろう…

 

電通にしろ博報堂にしろ、広告会社は、世の中の動きを敏感に捉えて、時代時代の「常識」や「普通」を作ってきた。
僕はその作ってきたものが良いとか悪いとか言う気はない。
ただ、それに疎外感を覚える僕のような人間は、どの時代にもいただろうと思う。

今回のワニくんの一件で言うならば、僕はどうしてもワニくんの「普通」の暮らしに自分を重ねることができなかった。
かつて「君の名は。」の水がきれい過ぎて住めないと思ったのと似ている。
でも、これは僕の個人的な問題であって、勝手に疎外感を感じているに過ぎない。
要するに「考え過ぎ」である。

嫌なら読まなければ良いじゃないか?
仰る通り。でもモヤモヤの正体が知りたくなってしまったのだ。
ただ、自分の嫌な部分が浮き彫りになった気がして、ちょっとだけ後悔している。