童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

アシタカへの誤解

新型コロナ騒ぎの煽りを受けて、映画館では新作映画がほとんどかからない。
そんな穴を埋めるべく、現在、ジブリ作品がリバイバルで公開されている。

theater.toho.co.jp実を言うと、この4作品の内「千と千尋の神隠し」以外、劇場で観たことがなかった。
もちろん、他の3作品も断片的にはテレビ放送などで観てはいた。
しかし、真面目に全編通しては観たことがなかった…のだと思う。
と言うのも、映画館応援を兼ねて数日前に「もののけ姫」を観てみたところ、それまで持っていた印象ががらりと変わってしまったのだ。
自分は、アシタカというキャラクターの意味を全くはき違えていた。

今回は、感想も兼ねて、そんな恥ずかしい勘違いをまとめておこうと思う。
公開から既に20年以上が経過しているし、今更ネタバレもないと思うので、内容に踏み込んで書くことにする。
それにしても、あまり思い入れはないつもりでいた「もののけ姫」ですらこれなのだから、「風の谷のナウシカ」を観たときには一体どんな感想になってしまうのか、今から恐ろしい。
本当はほぼ初見の「ゲド戦記」で記事を書こうと思っていたのに。

 


『もののけ姫』 特報【6月26日(金)上映開始】

僕がまだ、「もののけ姫」を知った気でいた頃、アシタカというキャラクターにとても違和感があった。
強く、優しく、まっすぐ。
ジブリ作品ではむしろ女性キャラクターに当てられることが多い性格だと感じたからだ。
その印象だけで、以前から僕は大変不遜な主張を繰り返していた。
もののけ姫は、アシタカが女性キャラクターであったならもっと爆発的な人気を得ていたであろうに、と。

遠く東の地で山間の村で、後継に恵まれず男装の麗人として村を守っていたアシタカは、ひょんなことから祟り神に呪われてしまう。
そして、西の国でサンとエボシという、全く自分と異なる人生を歩んできた二人の女性に出会うのだ。
アシタカが村の少女からもらったお守りをサンに渡してしまう例のシーンも、アシタカが女性であれば倫理的に全くOKだったはずだ。
ホモソーシャルが大好物なこの日本では、干し肉を口移しで食べさせるシーンは、御馳走として受け取られていたことだろう。
今更そんな主張をしたところで何の益もないので、せめて宝塚がもののけ姫を上演しないだろうか、などと浅はかにも考えていたのだ。

 

ところが。

改めて約2時間、集中して本作を見て分かった。
僕は、全くアシタカというキャラクターの意味が分かっていなかった。
彼は、この物語において、絶対に男性でなくてはならない。

 

もののけ姫」で描かれるのは、終わりの見えない戦争の現実である。
ここで描かれている戦は、今も世界のどこかで繰り返されている争いの相似である。
何よりやり切れないのは、この争いを起こして最も得をするであろう、あるいはこの争いを生み出している歪の根源たる存在は、この作品には出てこない、ということである。

本作は、一見、サンのいる森の神vsエボシ率いる人間たちという単純な二項対立構造のようであるが、本当は両者とも虐げられている側である。
山犬や猪たちは、自分たちの住んでいた森や山を一方的に追われる立場にあり、侵略者たるエボシたちに強い憎しみを抱いている。
エボシは、社会で爪弾きにされてきた女たちやハンセン氏病の患者たちを集め、タタラ製鉄の技術で朝廷や侍に立ち向かおうとしている。
しかし、画面に映らないところでは、その弱い立場の者同士が戦い合い疲弊するのを、遠くでのんびりと機会を待っているずるい者たちがいるのだ。
かつてアメリカの先住民と開拓者が戦い、それに続く奴隷貿易でイギリスが巨万の富を得たように。
中東の国々を常にコントロールされた紛争状態に置いて、資源を独占している石油メジャーのように。
いつの世の戦争でも、直接憎しみ合い傷ついて死んでいくのは、最も弱い立場の人間たちなのだ。
モロの君も乙事主さまも、「神」と呼ばれているが、その意味で彼らもまた人間と等しい存在だ。
憎しみに取り憑かれて、か弱く愚かな存在として描かれている。

 

その悲しい様をこれでもかというほど見せつけられて、宮崎駿という作家の深い絶望を感じつつ、一体どんな答えを出すのだろうと正直心配になっていた。
しかし、彼はそれに対して、絞り出すように解答を出していた。
それが、あの、シシガミを巡る最後のやりとりである。 

シシガミは、本作で唯一、文字通りの「神」として描かれている。
彼は、生命を吸い取り、また生命を与えることができる。
本作のラストにおいて、彼は首を落とされ、生命を奪う存在として暴れ回る。
しかし、アシタカとサンは奪われた首を取り戻し、肩を抱き合いながらそれを彼に返す。
すると、また地に生命が戻ってくる。
これは、神ではない我々に、唯一できることを示したラストであろう。
我々人間も、もののけ達も、一人では他者の生命を奪うことしかできない不完全な存在である。
しかし、男と女、一組になった時にはじめて、新しい生命を生み出すことができる。
生命を司る神たるシシガミに近づくことができる。
その意味で、あのラストは性行為に近い。
アシタカとサンは、本作においてアダムとイブとも言うべき存在なのではないだろうか。

 

したがってアシタカは、絶対に男でなくてはならない。
そうでなければ、原始的かつ動物的なこの結論に至ることはできない。

それにしても、絶望的に繰り返される紛争の解決の糸口として宮崎駿が希望を見出しているものが、持続可能な最小の社会構成単位である男女一組、というのは何とも感動的だ。
人は一人では生きてはいけない、などという手垢のついた胡散臭い説教文を、真正面から明快に説明している。
しかも人間だけではない。
山犬も猪も、哺乳類は全て、雄と雌からしか産まれ得ない。
例え乗り越えがたい文化や歴史の壁があったとしても、その動物としての最小単位の延長に、対話の可能性があり、悲しい争いが止む未来図を描けるのではないか。
そんな強く切実なメッセージを受け取った気がした。

というわけで、アシタカを女性キャラクターにするなど、とんでもない話であった。
ただ、ナウシカ歌舞伎が話題になったばかりである。
宝塚版の「もののけ姫」くらいは期待しても良いだろうか。