童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

若者を救え! ~ 来る x 天気の子

Prime Videoに「来る」が追加されたそうだ。

来る

と言っても、プライム会員ではないので見直したというわけではない。
ただ、Twitter上で話題に挙がっているのを眺めていて、劇場で観た当時のことを懐かしく思い出したのだ。
そして、「来る」と同時に、その次の年に大々的に公開されてヒットを飛ばした「天気の子」のことも連想して思い出した。
一見全く異なる2本だが、僕の中では、似たメッセージを背負う作品として分類されている。

「天気の子」と言えば、言わずと知れた新海誠監督の「君の名は。」に続く最新作である。
「君の名は。」が余りにも肌に合わず辛い気持ちをブログの記事にまでした身としては、「天気の子」についても書いておかねばなるまいと思っていた。
「来る」と併せてなら書ける気がしたので、この機会にまとめておこうと思う。
都合上、結末に触れざるをえない。
もしも未視聴でネタバレを避けたいという場合には読まないことをお勧めする。

 

 「来る」は、「下妻物語」や「嫌われ松子の一生」などで知られる中島哲也監督の最新作である。
中島監督の作品は、公開されれば必ず観に行っていた。
今回も公開されてすぐ位のタイミングに、ホラー好きの同僚を誘って観に行った。
と言っても2018年なので大分前のことになるが。


岡田准一×黒木華×小松菜奈!映画「来る」ロングトレーラー

妻夫木聡演じるイクメンパパ・秀樹と黒木華演じる大人しい妻・香奈、そして二人の幼い娘・ちさ。
この家族の元へ、タイトル通り、何かが「来る」。
そして、次々と登場人物たちがその何かによって恐怖のどん底へ突き落されていく。

 

本作は前半と後半で一つ区切りがある。

前半は、いわゆるジャンル映画としてのポイントをおさえた大変面白いホラーになっている。
オカルト的な何かに襲われる話ではあるものの、その実、それぞれのキャラクターは、自らの弱さやトラウマ、欺瞞と対峙することになる。
秀樹は虚飾と愛想笑いで固めた軽薄な内面と、香奈は自己否定と逃避を繰り返す臆病で卑屈な内面と。
役者陣が見事なハマりようで、中島監督の流石のキャスティングに改めて感動させられた。
いま鼻持ちならないイケメン役をやらせたら、妻夫木聡の右に出る役者はいないのではなかろうか。

後半は、一転して、何か vs 霊能力者たちの戦いの物語に変わる。
猛威を振るう何かと戦うべく、松たか子演じる最強の霊媒師・琴子によって全国から力のある霊能力者たちが集められる。
周囲は特別警戒状態となり、祓うための舞台が用意され、何かの妨害に遭いながらも一人、また一人と霊媒師たちがやってくる。
まるでヒーローものや戦隊ものの楽しさがある。
友人が「祓いフェス」と呼んでいたのには笑ってしまった。

 

さて、そんな楽しい「来る」だが、僕がこの作品から強烈に感じたメッセージは、今回の記事のタイトルにもした「若者を救え!」である。

本作は、実に夥しい量の犠牲が出ている。
何かによって憑り殺された人間たちはもちろん、全国から集められた霊媒師たちもほぼ壊滅状態に近い。
彼らはある意味で、幼い娘ちさを守るために死んでいった大人たちだと言える。
そして、彼女のことを本気で救おうとした人間だけが生き残ることになる。
多分、彼女が何かに連れていかれていれば、あそこまでの犠牲が出ることはなかった。
それでも彼女の未来は守られるべき、というのが本作の言わんとするところ、と思う。

全く普通の少女だ。
笑顔で遊ぶ様子は普通に可愛く、かんしゃくを起こして叫び声を上げる様子は普通に可愛くない。
映画を観た人たちも、顔を思い出そうとしても難しいのではないだろうか。
つまり彼女は、社会の子ども一般に他ならない。
匿名の若者と言っても良い。
経済・世代・教育、様々な点で格差が生まれて分断が進む現代において、本作は一つの訴えであるように思えてならない。
つまり、中島監督は、どれだけ大人たちが傷つこうとも若者たちが守られなければその社会に未来はない、と考えているのではないだろうか。

 

この流れで、もう一つの「天気の子」についても考えてみる。


映画『天気の子』スペシャル予報

去年の梅雨時期に飽きるほどTVCMも流れていたので、余計なあらすじも書く必要はないだろう。
家出少年・帆高が「晴れ女」の力を持つ不思議な少女・陽菜と出会い、「晴れ」を提供するサービスを始める、という物語だ。

実は、「君の名は。」のときのことがあったため、観に行くことにはかなりの抵抗があった。
また、あの時のように居心地の悪さで辛くなることは無いだろうか、と。
ところが、前回とは異なって感想の声がモヤついていると言うか、熱量高くキラキラと絶賛するような温度は感じられなかったのだ。
これはもしかしたら大丈夫かも知れない。
できれば似た感性を持つ友人たちと観に行きたかったのだが、予定は合わず、結局一人で観に行くこととなった。

 

驚いた。

途中までは、正直言って、「君の名は。」ほどの辛さはないものの何となく先の展開も読めた気がして半分興味を失ってしまっていた。
冒頭から意味ありげに拳銃が登場していて、東京の長雨を救うために人柱となってしまった陽菜ちゃんを救うべく走り出した主人公を見て、「ああ、これは神殺しの話だ」と思ったのだ。
きっと、その拳銃で神を殺し、君が呪われて雨男になるんだろう。
そして、彼女は救われるけれども、もう二度と会えない、みたいな。

その予想は、完全に裏切られることになった。
すんなりと陽菜ちゃんは救われて、当たり前のように東京は水没してしまったのだ。
しかも、水没した街で大人たちは、決して彼らを糾弾したりしない。
それどころか「昔はこの辺り海だったそうよ」と、彼らの罪悪感を軽くしてくれる。
おかげで、拳銃が最後まで何だったのか良く分からなくなってしまったが、それを補って余りある驚きだった。

 

これは、村娘が人身御供として神様に捧げられるタイプの良くある昔話に対するアンチテーゼである。
何か理不尽なルールがあり、何だかわからないけれども、それを守るため個が犠牲にならなければその他大勢が被害を被る、というシチュエーションは昔話に限らず多く存在する。
だが、大抵の場合、個が犠牲になるなんておかしい、という観点からルールが正される方向に物語は進んでいく。
ところが今作は、ルールはそのままに、その他大勢が被害を被ることはやむなし、としているのだ。

ある意味、画期的だと思う。
確かに、現実の社会において何だかわからない「理不尽なルール」を変えることは難しいのだ。
それは、例えば天災であったり、疫病であったり、貧困であったりする。
ルールを変えたくても変えられない、あるいはすぐには変わらないものだらけだ。
その中にあっても、全体のために個が、特に若い個が犠牲になることは明らかに間違っている。
それが、新海誠監督の訴えではないか、と思うのだ。

商品がほぼそのまま大画面に大写しになり、TVにラジオに雑誌にと異常とも言うべき広告展開が行われ、本作を巡る経済は計り知れず大きいことが窺われる。
その中にあって、このメッセージ。
新海誠という人を誤解していた。
こんなにパンクな人だったとは。
若い非正規労働者たちから搾取して肥え太ったスポンサーたちの金を使ってこの映画をヒットさせるのは、さぞかし気持ちが良かろうと思う。

 

ここ数年の中で、立て続けにこうしたテーマの作品が発表されているのには何か意味があるだろう。
現代に生きる作家として、中島監督も新海監督も、共通した問題意識を持っている、ということではないだろうか。
それでなくても、ここ最近は、分断をテーマにした作品だらけである。
その中にあって、今回の二作は一つの進むべき方向性を示していると言えよう。
何て、全部僕が受け取ったメッセージを前提にした話に過ぎないので、ただ僕がそう思っているだけなのかもしれない。