童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

鬼滅の刃の窮屈さ

鬼滅の刃のおかげで、映画館に人が戻ってきている。

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つい一か月ほど前までは、映画館に行っても3-4人しかいない状態で鑑賞するというのが当たり前だった。
しかし今、土日はおろか平日ですら劇場に人が溢れ、もはや新型コロナ流行以前よりも活気があるのではないかと感じる勢いを見せている。
映画は絶対に劇場で観たい、という立場の人間からすると、「鬼滅の刃」に対しては本当に感謝しかない。

映画館を救ってくれて、ありがとう。

 

さて、そのありがとうの気持ちも込めて、自分も劇場版を鑑賞してきた。


劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 予告編第1弾公開 !!

空前のヒットを飛ばす本シリーズだが、その人気には、作品の内容そのものの他に、新型コロナとサブスクの存在があるのではないかと思う。

新型コロナが猛威を振るっていた頃、世間はステイホームを合言葉に、学校も休み、仕事はリモート、娯楽施設は軒並み締まって皆自宅に閉じ込められていた。
その中で、サブスクを利用する人は大きく人数を伸ばしたことと思う。
そしてサブスクで何を観ようと考えたとき、世間で人気があるというシリーズをとりあえず、となるのはごく自然な流れだ。
自分もまさにその一人で、ステイホーム期間中に本作のテレビシリーズを一通り観ていた。

サブスクの良いところは、ネットさえ繋がれば、いつでも、何度でも、どんな媒体でも観られる、という点にある。
これは推測に過ぎないが、おそらく子育て家庭は、非常に「鬼滅の刃」の配信に救われたのではないかと思う。
学校が休みで暇を持て余した子供が家にいる。
相手をしたくとも、自分もリモートで仕事をしなければならない。
どうやって子供の時間を潰させようか、という時にこのサービスは実に都合が良い。
最低1話25分間は、子供たちの関心をそちらに集中させて、大人は他のことができるわけだ。
しかも、ちょっと操作に慣れれば、文字が分からない幼児でも自分で再生できるようになるのだって難しくない。
単純明快なストーリーに王道の演出で、大人がチラチラ見ていても内容をそこそこ把握できるのもポイントが高かったのではないか。

そこへ来て、テレビシリーズと直接繋がる続編である劇場版の公開。
キッズたちは当然続きが気になるし、その頃には親だって観たくなっている。
感染拡大が収束してきて世の中全体も元に戻りつつある中、娯楽に飢えた多くの人々にとって、今回の劇場版公開はまさに渡りに船だったのだろうと想像する。

 

ところが。

感謝の心で劇場に足を運んだのは良かったものの、僕はいま、観に行ったことを大変後悔している。
何故なら、全く乗れなかった、と言うかとても窮屈な思いをしてしまったからだ。
この多数派との温度差をまざまざと見せつけられる感じは、実に「君の名は。」のとき以来である。
すすり泣きが響く劇場に反して冷めきった自らの心。
あの時と同様、自分には何か欠陥があるのではないかと勝手に傷ついてしまった。
今回は、その「窮屈」の正体をまとめておきたいと思う。

というわけで、今回は僕が勝手に感じたネガティブフィーリングを書きつけるものになるので、本作のファンの方は読むことをお勧めしない。
ネタバレについては極力避けるつもりでいる。

 

 

僕が感じた「窮屈」は、大きく分けて二つある。
一つは、解釈の窮屈さであり、もう一つは、思想の窮屈さである。

 

まずは解釈の窮屈さ。

これはテレビシリーズのときから感じていたことだったのだが、本作はとにかく状況説明や心情描写が直接的だ。
例えば、テレビシリーズ第一話。
鬼殺隊の一人である富岡義勇と対峙する有名な場面。
主人公である炭治郎の心の声も盛んに喋るのだが、彼を叱責する義勇の心の声もなかなかに雄弁だ。
これが他の作品であれば、あくまでも視聴者に聞かせるのは主人公の声のみにして、厳しく当たる義勇については、後でその真意が明らかになる演出をとるところである。
ところが、本作はそういった伏線めいたものはほとんど排除されている。

しかし、見方を変えれば、非常に分かりやすく作っているとも言える。
真意を隠した演出は、ともすれば大きな誤解を生む。
その誤解が解ける瞬間こそがカタルシスと言えなくもないが、その瞬間まで視聴者はその印象を保ち続けなければならない。
小さな子にはストレスかも知れないし、作業の片手間に観ている親たちにそれを要求するのはもっと辛い。
だから、たて糸となる大目標「鬼を退治して妹を助ける」だけを明確にして、それぞれのエピソードはなるべくその中で完結するように作られているように感じる。

劇場版でもそれは健在で、とにかくキャラクター達は陰に陽に良く喋る。
でもこれは、僕のように作品を観ながらとにかく考えたい人間にとってはとても窮屈だ。
解釈の余地が全くない。
多分、本作を題材にして国語の問題なんて絶対に作れない気がする。
「この時場面でのキャラクターの心情を述べよ」と聞かれたって、本文にそのまま書かれているのだから。
一つ気になるのは、本作の二次創作はどの程度盛り上がっているのだろうか。
キャラクター人気もあるだろうからそれなりには盛り上がっているだろうと察するが、ここまで余白のない作品でも世のオタクたちはちゃんと妄想できているのだろうか。
ほぼ捏造になってしまわないか。

 

もう一つの思想の窮屈さについて。

こちらはテレビシリーズで何となく感じていたものが、今回明確になった。
僕は、本作に漂う「正しさ」の匂いにとても窮屈さを感じる。
特に炭治郎に顕著なのだが、彼は「正しい」価値観を具現化した存在である。
目標のために全身全霊で努力する、どんな過酷な状況でも弱い者を助ける、他者の良心を信じる…etc.
どれも少年漫画で大事にされる「正しさ」である。
もちろん、脇を固めるキャラクター達の存在がある程度バランスを取っているものの、それでも、最終的には「正しい」方向に収束してしまう。

でも、僕はその「正しさ」はとても窮屈だと思ってしまう。
一つ一つ、確かに良いことだとは思うものの、その裏に「そうではないもの」に対する排除の意識が働いていないか。

劇場版で言うならば、例えば結核の少年が自らの行いを悔やむシーン。
炭治郎はその少年に対して、心の中で「可哀そうに」と呟く。
憐憫や同情は大切な心だし、思いやりに繋がる素晴らしいものだと確かに思う。
でも、この「可哀そう」という言葉はなかなか難しくて、僕は何だか排他的な何かを感じてしまう。
つまり、正しくあることのできない者を哀れに思うというのは、ある種の切り捨て、その人間性を認めていないことにならないか。

例えば、劇場版の主要登場人物となる煉獄杏寿郎の心に刻まれた母の教え。
弱き人を助けることは強く生まれた者の責務。
この言葉、確かに正しく、褒められるべきものかも知れないが、考えようによってはとても驕った見方ではないか。
特定の価値基準で人間を分けて考える、差別に近い意識がその裏に潜んではいないか。
少なくとも本作で、そのことに対する自己批判は行われず、とても座りが悪い。

そして、本作に漂う「正しさ」の中で、最も気になったのが自己犠牲の扱い方だ。
主人公たちはシリーズを通して、常に自分を殺して、鬼との戦いを続けている。
劇場版でも、それが象徴的に描かれるシーンが何度も登場する。
何より、作品のキャッチコピーに集約されている。

自己犠牲は、日本人が大好きなテーマだ。
忠臣蔵然り、白虎隊然り、特攻隊然り。
自分だってそれに心動かされる部分がないわけではない。
しかし、個人の幸せや命よりも優先すべきことがある、という「正しさ」はとても窮屈じゃないだろうか。
それでも、冷静な分析と理性的な判断の下でそれが行われるならば、まだ理解できる。
しかし、本作においてそれはほぼ見られない。
言い方は悪いが、ほとんど勘や感覚に頼っていて失敗も成功も運に左右され、悲劇的な展開も犬死にに近い。
僕は、その悲しさは理解しても、その死を貴ぶことはできない。
誰か一人でも、その在り方を切って捨てるキャラクターがいてくれたなら違ったのだろうが、残念ながらそれはなかった。

子供たちがもし、彼らのような生き方を憧れとしていたら?
明らかに無謀な戦いに、それでもやらなければならないと言って向かっていったら?
僕は、それを全力で止める大人でありたい。
日本人が改めるべきと強く思っていた部分が、そのまま「良きこと」であるかのように描かれていて、強い違和感があった。
しかも、それが満杯に近い劇場の人々の多くの涙腺を刺激して、特に子供世代を中心に人気を博していると言う。
居心地の悪さとともに、危機感と言うか薄ら寒ささえ感じている。
考えすぎかもしれないが、令和になってなお、竹やりで戦闘機と戦うことを良しとするような愚かさがまだ残っているような感覚。
向こう30年くらいはブラック企業もまだまだ消えないかも知れない、とさえ思ってしまった。

 

いつも通り、勝手な意見を取り留めもなく書いてしまった。
ほとんど文句に近いかも知れない。
素直な感想には違いないので、許してもらいたい。
そして、冒頭にも書いた通り、映画館を救ってくれていることについて、強い感謝の気持ちがあることに嘘はない。
最後に、もう一度書いておこう。

映画館を救ってくれて、ありがとう。