童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2024年4月17日

引っ越し先を探している。
今住んでいる家には丸6年住んだのだが、来年の3月末でもう住めなくなり、取り壊されることが決まっている。
遅くとも年内くらいには引っ越さざるを得なくて、今から物件を探し始めているわけだ。

思えば、今の家はなかなか刺激的だった。
駅近1LDKにしては破格の値段だったが、その分古さも凄かった。
タイムスリップしてきたような水回り、夏は昼の暑さを吸収して放熱し冬は外気と同じ温度になる壁、何だか分からない虫が這い出す畳。
特に、春になると現れるダニには閉口した。
毎年食われて酷い目に遭うので、ダニは春の季語だなと思っていた。
ダニを集めるシートは、ドラッグストアに売っているものではなくて高いものを買うべきだという知見も得た。

ついに、この古い部屋から出る。
引っ越し自体は嫌いじゃないし、何なら既に今の仕事場に就職してからもう2回引っ越している。
余りにも安いので長く住んでしまったが、それ以外は上記の通り酷いことばかりだったので、特に残念な気持ちもない。
そろそろ3-4月の引越しシーズンが終わる頃で、売れ残った物件が市場に出てくるタイミングだろう。
これくらいの時期に決めてしまうのもアリか、などと思いながら物件サイトを眺めている。

物件を探す時に条件を入れて選択肢を絞る訳だが、自分の場合に絶対付けたいのは「独立洗面台」と「2階以上」だ。
どちらも、前に住んだことのある物件で困ったことがあるから。
最初に一人暮らしした家はユニットバスタイプで、朝洗面台に行くときに足が濡れるのが本当に嫌だった。
次に住んだ家は1階で、冬場の尋常じゃない寒さに耐えられず、結局1年で転居を決めてしまった。
今の家は古いもののその二つの条件はクリア。
逆に言うとその二つさえクリアされていれば、他が酷くてもまあ6年くらいは住めるということになろう。

まだ転居期限に猶予はあるものの、仕事も大体忙しいので引っ越しできるタイミングは限られている。
軽率に決めてまた短期で引っ越すのも、それはそれで有りかも、と思いつつ仕事がそれを許してくれない可能性は高い。
しばらくは、暇を見つけて不動産屋に通うしかない。

2024年4月16日

何だか今日は、特に重い仕事はしていなかったはずなのに、疲労感が凄い。
大きなトラブルが起きたのは確かで、でもその復旧作業に主に当たっていたのは出入りの業者さん。
自分は手伝いくらいで大したことはしていなかったはずだった。
結局トラブルは未解消で明日に持ち越しとなったのが、何となく心に影を落としているのかも知れない。

春のせいなのか、未だ疲れが消えていないせいなのか、朝起きるのが更に億劫になっている。
今朝は、ここのところちゃんとリアタイできていた朝ドラも見逃してしまった。

昨シーズンの「ブギウギ」に引き続き、今期の「虎に翼」も視聴を続けている。

www.nhk.jp

女性の権利が著しく制限されていた時代に、法曹の世界に飛び込んだ女性の物語。
と言うことで、かなりしっかりと社会的な「女性」を描いた作品になっている。
第一週から、結婚を強いられてそれに乗れない主人公が描かれて、特に台詞はないものの道ゆく女性たちは皆疲れた顔や泣き顔を見せている。
女性たちの尊厳が踏み躙られ、口を塞がれ、そして女性どうしで世代間で呪い合う。
戦前の話と言いながらも現代にも通じる問題が、非常に分かりやすく提示されている。

観ていて、何となくこれまでの朝ドラにはないほどに、女性差別の問題が多いと感じたのだけれども、もしかするとその感想は間違いではないか、と思い直している。
今までも同様の問題は含まれていたけれど、我々が認識できていなかっただけではないか。
令和になって、「これは明らかに問題だよね」「酷いよね」というのが自然な反応として定着してきた、と言うことのような気がする。
主人公寅子が、理不尽を前に「はて…」と首をひねる度に溜飲がさがる。
このテレビの視聴率自体が落ちてきている昨今でも、朝ドラは比較的高い視聴率を持っているはず。
僕と同じように多くの人が、寅子を通して、かつての日本や今の日本が抱える問題に切り込む擬似体験をしているのかも知れない。

2024年4月15日

昨夜、大人になって初めて、う○こを漏らしてしまった。
多分、オムツをしていた幼児の時以来だと思う。
まさか、不惑の歳が見え始めたこのタイミングで、こんな恥ずかしい経験をして、しかもそのことを日記に書くことになろうとは。
本当は、昨夜の内に書いた方がホットな話題だったに違いないが、思ったよりもショックでそんな気持ちになれなかった。
物凄く汚い話になるので、苦手な人は読まない方が良い。

 

昨日は、昼頃に職場の人のBBQに顔を出し、肉やら魚やらを食べ、差し入れたアイスキャンディーを食べ、夕方頃までは何と言うこともなかった。
いや、正確に言うと、ここ数日は割と食べている割にお通じが少ないという実感があった。
何となく腹に溜まっているような、嫌な存在感を感じてはいたけれど、特にそれ以上は気にすることもなかった。
いつものように、夜に徘徊に出掛けて、しかも公衆トイレが豊富にある街の方でなく畑の方に繰り出してしまったのが運の尽きだった。

折り返して帰ってくる頃に、怪しい気配が漂い始めた。
痛い、物凄く痛い。
全内蔵が、体内の毒物を排出したがっている圧力を感じた。
一歩一歩進む度に高まる緊迫感。
社会的死の訪れを予期して、脳が激しく警報を鳴らしていた。
ただ、実はこの時にはまだ、救われる可能性があった。
大きな公園のそばだったので、少し歩けば公衆トイレがあることは分かっていた。
ただ、それとは反対の方向にもうしばらく行くと、コンビニがある。
コンビニのトイレの方が、確実に綺麗だ。
しかもこの時間なら、埋まっていることもなかろう。
そんな判断をして、コンビニの方を選択してしまったのだった。

急がば回れ

昔の人は、よく言ったものだとおもう。
もしかしたら、似た経験をしたのかも知れない。

コンビニに着いてトイレの方向を見て絶望する。
「都合により使用停止中」
危機が近いのだから、無理を言ってでも使わせて貰えば良かったのかも知れない。
しかし、思った以上に店内に人もいて、それを訴えることができなかった。
何より、自宅まではそこから10分くらい。
そちらに賭けることにしてしまった。
ここからの道は本当に地獄だった。
進まなければトイレは近づかないが、猛烈な痛みと圧力が度々襲ってくる。
頻度も強度もどんどんと上がってくる。

結局、自宅のほんの少し手前で、ついに決壊した。
少し身がはみ出したなどという生やさしいものではない。
しっかりと重量を感じるくらい、厚手のスラックスに若干染みて外から分かるレベル。
幸い深夜で誰もおらず、外を汚すこともなく、すぐに自宅に駆け込めたので、社会的死は免れることができた。
そこから待望のトイレに入って後処理。
もう下着は捨てる以外ないと分かっていたのでビニール袋を持って入ったのは良いものの、下着を脱いでハッと気が付く。
下着から足を抜くのが、物凄く大変なことに。
こう言う時、トイレに鋏を持って入った方が良いと言う豆知識を、昨夜初めて得た。

結局下着とスラックスをどちらもゴミに出し、体はシャワーで洗い流し、何とか体裁を整えることができたが、心の傷は深かった。
今朝も玄関から出た時、これがう○こを漏らした後の世界か…などと訳の分からないことを思ってしまった。
これから歳を重ねていって更に尻の弁が馬鹿になっていったら、またこう言うことが起きるのだろうか。
良くお漏らしをして父を困らせていた祖母を、今となっては全く笑えない。
とにかく健康に気をつけて、徘徊する時は途中にトイレがあるルートを選ぶこと。
そのことだけは、徹底したい。

オッペンハイマー

日記でも宣言していた通り、数日前に「オッペンハイマー」を観てきた。
昨年くらいから話題になって、アカデミー賞でさらに注目され、満を持しての公開だった。
クリストファー・ノーラン監督は、決して好きな映画を撮る監督ではないものの、どれも間違いなく面白くはあるので、楽しみにしていた。


www.youtube.com

オッペンハイマー博士は、原爆の父と名高いアメリカの物理学者。
理論物理の分野で頭角を表して素粒子物理を研究する内に、原子爆弾を作るという国家プロジェクトを率いることになる。
物理を勉強していれば必ず目にするスター研究者たちと交流しながら、彼は原爆実験をついに成功させる。
かの有名な、ロスアラモス研究所で行われた人類初の核実験、トリニティ実験である。
広島、長崎の原爆投下を経て、彼は、良くも悪くも世界の有り様を一変させた人物となった。
そんな彼の栄光と、その後の歩みを描いた作品である。

最後、ネタバレを入れた上で感想を残す。
気になる方は、読まないことを薦める。

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2024年4月12日

昨日の夜は、前々から飲みに行きましょうと約束していた職場の方と初めてご一緒してきた。
この4月からペアになって働く人が代わり、かなり大変な目に遭っていると聞いていた。
なので、昨日の夜のほとんどは、それぞれの人の最近の苦労話、というか愚痴。
そうなる気がして中心街から少し離れた居酒屋を選んだおかげなのか、我々以外に他のお客さんも現れず、デトックスに専念した夜だった。

なぜかは良くわからないのだけれど、昔から良く愚痴を聞く立場になりやすい。
多分、僕が愚痴っぽいからなのだろう。
居室でも良く、今こんなことがあって困っているんだとか、さっき来たメールに腹が立ったとか、そんな話をしている。
別に深刻なつもりはなくて、腹に溜めないために吐き出しているだけ。
自分では、前向きな愚痴だと勝手に思っている。
だからなのか、別に居室の入り口に「よろず愚痴、伺います」の貼り紙をしているわけでもないのに、方々から人が集まってはみんな愚痴を吐いて去っていく。
上の立場の人も下の立場の人も、老若男女問わず現れる。
それくらい、現代人には毒が溜まっていると言うことだろう。

考えてみると、そもそも母がかなり愚痴っぽかった。
実家で暮らしていた頃は、良くそれを聞いていた。
祖母の介護が始まってからはそれに父が加わって、今や仕事場でも実家でも誰かの愚痴を聞いている気がする。
ここまで来ると、もしかすると自分には愚痴を聞く才能があるのかも知れない。
実際、あまりジメジメして洒落にならないようなものでなければ、愚痴を聞かされてもそれほど喰らわない。
愚痴は良くないと言う人も多いけれど、言語化することで整理されてスッキリすることは良くあることだし、それで明日も頑張れるなら良いじゃんと思っている。
ポジティブな愚痴って、多分ある気がする。
本当は、研究者ではなくてカウンセラーとかに向いていたのかも知れない、などと今更になって思う。

2024年4月9日

少し前に誕生日を迎えた職場の先輩に、プレゼントを渡してきた。
普段からあれこれとお世話になっているので、毎年何かしらお贈りしている。
イベント好きな方なので、パーティーグッズやらバラエティグッズやらを選んで渡してきたのだけど、今年は時間もなかったこともあって消え物にしてしまった。
それでも自分で使ったことがあるもので、かつオススメしたいと思えるものを選んだ。
喜んでもらえたら嬉しい。

人のプレゼントを選ぶのは、割と好きな方だと思う。
今回渡した方の他にも、何人か職場の同僚には誕生日プレゼントを贈っている。
その人の好みを考えたり、だけど自分らしさも出したかったり、その辺のバランスを取りながら選ぶのが楽しい。
自分では買わないけれど、誰かからもらえたら嬉しい、みたいなラインを攻めたがる。
あと、自分で気になっていたものをあえて渡して使い勝手を聞いてみたり試させてもらったりもする。
本当は誕生日じゃない時も好きにプレゼントを贈りたいのだけれど、流石にそれは怖がらせるので控えている。

逆に、プレゼントされるのははっきりと苦手だ。
まず、渡された時にどんな顔をしたら良いのか分からない。
嬉しい気持ちもちょっとはあるが、自分のためにコストをかけさせたことに恐縮してしまう。
その上、心の底からの喜びを見せられないのが、輪をかけて申し訳ない。
そして、これは本当に嫌なやつだと思うのだけど、人からのプレゼントが自分の好みと合致することがとても少ない。
何なら、これが好きだと思われているのだろうか…と相手の目に映る自分の姿にショックを受けることすらある。
誕生日だった場合、何だか1年間の自分の振る舞いの通信簿を受け取るような心持ちなのかも知れない。
ああやっぱり理解してもらえなかったのだな、と言う残念さが残っていく。

プレゼントを贈るのは好き、贈られるのは嫌い。
この非対称性は一体何なのだろう。
自分が苦手だと思うように、僕が誰かに渡した時もそう思われている可能性だって大いにある。
それでも贈るのが好きなのは、自分は相手のことをちゃんと理解できているはずだという驕りがあるせいかも知れない。
相手が僕を見る目より、僕が相手を見る目の方が確かだという自信の表れではないか。
身も蓋もない言い方をするなら、人よりセンスがあると思い上がっているのではないか。
そう思い当たったら、何だか恥ずかしくなってきてしまった。

2024年4月8日

早く「オッペンハイマー」を観に行きたいと思いながら、今日も達成できなかった。
やはり平日で3時間潰れると思うと、なかなか手が出しにくい。
上映時間が2時間半を超える大作が最近は多くて、映画のハードルが上がっている気がする。
確かに、その分きっちり楽しませてくれる作品が多いのは確かだが、ライトな映画ファンには辛いところだろう。
自分のように平日のレイトショーに行くような人間でも、観終わるともうヘロヘロになっている。

ワークライフバランスという言葉があるけれど、最近趣味の時間を楽しみながら、そのことを良く考える。
映画にしろスキーにしろ、趣味を楽しむにも体力がいる。
年齢を重ねて疲れやすくなってきた分、余計にそれを感じる。
読書やゲーム、果ては録り溜めたテレビ番組の録画ですら、こなすのが億劫に感じることがある。
仕事に疲れた現代人たちが、段々と無趣味になってスマホでぽちぽちガチャを回すことしかできなくなっていくのも無理からぬことだろう。
数年前に「花束みたいな恋をした」という映画で、就職した主人公が日々に追われて小説を読めなくなり、代わりに自己啓発本を読んだりぼーっとパズドラで時間を潰し始める描写があったが、何ともリアルな絵だった。
コスパやらタイパやらが重視されて、数年前よりも状況はもっと深刻になっている気がする。
自分も例外ではないと感じる。

こんな傾向が続くようでは、今素敵だと思っている文化芸術は、その内にどんどんと縮小してやがて死んでしまうのではないかという恐怖がある。
どこかで、もう一度、余裕とか無駄とか不要なものとかを再評価して向き合う必要がある気がする。
というところまで考えて、これはミヒャエル・エンデの「モモ」だと思い至った。
時間泥棒によって失われた時間を取り戻す少女の話。
「モモ」が出版されたのが1973年なので、すでにその時点で問題視されていたことなのだろう。
そして、未だその問題は解決されず、膨張し続けている。