読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

童貞見聞録

アラサーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

一人暮らし適性

駄文

世の中には、一人暮らしに向いている人間と向いていない人間がいる。
2年ほど一人暮らしを継続してみて、僕は前者に含まれるのだということを実感している。

元来、ほぼ一人っ子として育てられてきたこともあって、一人○○には抵抗がない。
一人レストラン、一人旅、一人映画、一人寄席、一人ライブ、一人水族館、etcetc
興味がないからやらないだけで、一人焼き肉、一人カラオケ、一人ディズニーも平気でできるだろう。
もちろん、誰かと一緒に体験を共有する喜びも理解できるし、それが嫌いなわけでは決してない。
でも、体験を独り占めできる喜びというか贅沢感も同じくらい好きなのだ。
一人だと、相手の反応や希望に考えを回す必要がないだけ気が楽ということもある。
とは言え、大学院を出るまでずっと実家暮らしだったし、両親との関係も良好だったので、一人暮らしがしたいとも思っていなかったし、自分に向いているかは良く分からなかった。
ただ、ある部分では、一人暮らしを始めたら、寂しさでやりきれなくなるような夜が来るのではないかと期待していた。
自分にも性欲が湧き上がってくる日が来るのではないか、と。

 

しかし、期待も虚しく、とりあえず今までのところ一人暮らしが楽しくて仕方ない期間が続いている。
とにかく楽だ、ということに尽きる。
自分の食べたい料理を作って食べ、したい恰好でウロウロして、好きな時間に好きなことをしていられる。
どうも自分は、実家でそれなりに気を遣っていたらしい。
確かに、クリームシチューをご飯にかけたり、夏場に家の中では基本全裸だったり、ということは、流石に実家ではしていなかった。

それに、元々、一通りの家事ができたことも大きいと思う。
大学院の頃、全く家事ができなくて実家のお母さんに週一で片付けに来てもらっている人の話を聞いたことがあるが、その人はさっさと結婚を決めていた。
周りを見回してみても、結婚している男性はどちらかと言うと、家事能力に問題ありの奴が多い気がする。
結婚するかどうかは、つまるところ、必要に迫られるかどうか、強い意志の有無が重要なファクターになるのだと痛感している。

 

さて、一人暮らしを続けてみて、二つ、考え方に変化が起きた。

一つは、「誰かと暮らす」ということへのハードルが高くなった。
実家に暮らしていた頃は、割と誰かと共同生活するのは難しくないと軽く考えていた節があった。
当時はまだ学生で、気持ちに余裕があったせいもあるかも知れない。
しかし、一人暮らしをするようになって、こんな人とは暮らせないというのが増えてきた。
例えば、古くなった食品を平気で捨てる人、潔癖の人、自分の時に終わってもトイレットペーパーを替えない人、人の趣味を否定してくる人。
つまらないことも多いが、楽な生活を知ったことで、どんどんと許容の幅が狭くなってしまっている。
と同時に、自分のこだわりみたいなものが顕わになってきて、ちょっと面白くも感じている。

もう一つは、SNSに自分の料理をあげている人達の気持ちが理解できるようになった。
確かに、誰かに見せるという気持ちがないと、料理というのはいくらでも手を抜くようになる。
特に、盛り付けが顕著だ。
夏場、冷やし中華を良く作るのだが、一人暮らしになってから、具が麺の上に載った状態で食べていない。
何故なら、麺を茹でながら具材を切って皿(というか丼)に入れていくので必然的にその順番になる。
他にも、作りながら食べてしまうので、全ての料理を揃えてから、ということも少なくなった。
この生活を改めるため、ちゃんと文化的な食事をするために、SNSで公開という適度な緊張感を利用することは、成程、意味のあることかも知れないと考えるようになった。
ただ、自分で実践しようという気には今のところなっていない。

 

先日、仕事場で同僚と上記のような話をしたら、2年くらいではまだ楽しいだろう、辛いのは10年くらいしてから、と言われた。
確かに、それはそうかも知れない。
病気も、ノロウィルスに罹ったくらいで、数日寝込むレベルのものには遭っていない。
そもそも、老化していけば、体が今のようには動かせないことも出てくるだろう。
そして、何より、両親が亡くなった時には、かなり考え方が変わる予感がある。
向こう10年したら、今のこの楽しい気持ちが薄れて、つがいを求める気持ちが立ち上がってくるのだろうか。
自分の心境の変化も楽しみつつ、しばらくは一人暮らしを継続していくつもりだ。

彼らが本気で編むときは、

映画

先日のLA LA LANDに続いて、荻上直子監督の「彼らが本気で編むときは、」を観てきた。
荻上監督は、「バーバー吉野」や「カモメ食堂」が割りと好みで、その後の作品もちょこちょこ観に行っていた。
一時期大ブームになった食べ物が美味しそうなお洒落ゆる旅系映画の火付け役と言っていいと思う。
雑誌hanakoとか読んでる女子が好きそうな感じ。
そんな監督が最新作でLGBTをテーマにするということで、童貞とは言え僕もその端くれであると自認しているので、観ねばなるまいと思っていた。


生田斗真がトランスジェンダーの女性に『彼らが本気で編むときは、』予告編

 

率直に言って、大変不快な作品だった。
その不快感の正体について、自分なりに良く考えてみた。
考えてみて、ブログの記事にするかどうかについてかなり悩んだ。
特定の作品に対する批判を公にすることは、なかなか覚悟のいることだ。
単なる悪口になってしまうのは、その作品を一生懸命作り上げた人たちに対して申し訳無さすぎる。
ただ、本作がLGBTに真面目に向き合っているとかレビューで書かれているのを見ると、当事者の一人として、どうしても訴えておかねばなるまいと思うところがあったので、やはりまとめておくことにする。

今回の記事はかなり辛辣な内容になる。
もしもこの作品のファンであり、批判的意見は目にしたくないという人があれば、この先は読まないようにしてもらいたい。
それから、今回はネタバレのことは気にせず書いていくつもりだ。
これから鑑賞される予定の方も、以降の内容は読まないようにしてもらいたい。

 

続きを読む

LA LA 落語が観たい

映画 落語

引っ越しからの実験、学会準備で忙しい日々を過ごしていて、なかなかブログを書くことができない。
書きたいことがあるのに書けないのはなかなか焦れるものだ。
とりあえず、引っ越しに関連して独り暮らしについて書きたいと思っていたのだけれども、時間ができたところで映画を観に行ってしまったので、そちらからまとめることにする。

LA LA LANDを観てきた。
アカデミー賞でも話題の作品だったし、公開されて間もなかったこともあり、レイトショーと言えどなかなかの混雑ぶりだった。
個人的にミュージカル映画は大好物なので、楽しみにしていた。
「シカゴ」や「オペラ座の怪人」、「レ・ミゼラブル」のように、既にミュージカルとして確立されたものの映画化ではない。
こうした作品が評判になることは珍しいようにも思うし、期待は高かった。


「ラ・ラ・ランド」本予告

続きを読む

ストーカーと映画 ~ トーク・トゥ・ハー × アンナと過ごした4日間

映画

僕はストーカー映画が好きだ。
いや、ストーカー映画などというジャンルはないのかも知れないけれども、とにかくストーカーが題材になっている作品が大好物だ。

そもそも映画に限らず芸術作品とは、自分とは全く異なる人間の心の動きを追体験させてくれるところに大きな意味があると思う。
だから自ずと芸術作品に現れるキャラクターは、社会的弱者であったり反社会的人物であったりすることが多い。
そうした人々にスポットを当てて共感を促すことで、問題提起したり、あるいは社会を少しだけ寛容にしたりする。
それこそが、芸術作品の担う大きな役割だろうと感じている。

僕にとって、ストーカーは最も遠いようで近い存在だと思っている。
このブログで何度も書いているように、僕は無性愛的傾向が強い人間なので、特定の誰かに対して固執したりすることがない。
その意味でストーカーとは真逆な人生を歩んでいると言える。
しかし見方を変えると、一度もそうした経験がないということは、いつかその瞬間が来た時に、正しく受け止められない危険性が高いとも言える。

ストーカーの特徴の一つは、何と言ってもアンバランスで歪んだコミュニケーションだろう。
ストーカーは自分から発信はするのに、正しく受信できない人間だ。
相手が嫌がっていても、それを照れていると解釈してしまう。
自分が発信したことを、思っている通りに相手が受信すると信じ込んでいる。
身勝手極まりない心の動きだけれども、友人同士とか仕事場とか家庭とか、もっと普遍的なコミュニケーションにまで問題を単純化すると、誰しも陥らないと断言することはできないはずだ。
その状況を未然に防ぐのが「経験」だろうと思うのだが、僕の場合、こと恋愛に関してはそれがない。
それに、経験値を積むには年をとりすぎてしまった。
だから、特にストーカーの視点が丁寧に描かれた作品に対しては、何となく他人事とは思えず、好奇心と戒めの気持ちとともに少しの愛着を感じている。
別にストーカーを擁護する気持ちは全くないけれども、その心理状態は確実に自分と地続きのところにあると思うのだ。

 

2月某日、友人と一緒に久しぶりに早稲田松竹に行ってきた。
大好きなペドロ・アルモドバル監督の特集で「トーク・トゥ・ハー」が上映されるということで、楽しみにしていた。
本作は、良ストーカー映画として強く印象に残っている作品の一つで、改めて観て再度衝撃を受けてしまった。
その衝撃をきっかけに、自分の中でストーカーと映画で二本立てを作ってみたくなり、記事にまとめることにした。

続きを読む

僕の中の受動的ヤリマン

人には、いくつもの人格が宿っていると思う。
特に、比率はそれぞれ違うだろうが、どんな人間にも、いわゆる「男性」的な部分と「女性」的な部分があるはずだ。
僕の場合は、両者が半々に近い(もしかしたら女性が多いかも)くらいの割合で常にせめぎ合っている感覚がある。
人によっては気持ち悪く映ったり悩みの種になることかもしれないが、個人的には、特に芸術作品を楽しむときにお得感がある。
例えば、去年「逃げるは恥だが役に立つ」を観ていた時には、平匡さん視点でも楽しめるし、みくりさん視点でも楽しめた。
どちらも可愛く思いすぎて、最終的には十姉妹になって毎朝二人に微笑んで見つめてもらいたい、と訳の分からないことを言い出す始末だった。
この記事では、自分の中の女性的な部分について気が付いたことをまとめておく。

続きを読む

性的指向について②

ブログ開始早々に書いた記事の中で、僕は自身の性的指向について、

同性愛者に近い両性愛者でありながら、無性愛者

と表現した。
これに関連して、ここ一か月ほど、自分の体を使って実験していたことがある。
その結果をまとめるとともに、ブログのテーマでもある自分の性的指向に関する考察を付け足したい。

続きを読む

コリアン文化の洗礼

漫画・アニメ 音楽

右派政権が長期化しているせいか、近年ずっと嫌韓ブームが続いている。
本屋に行けば、ヘイトに満ちた煽り文が踊る本が平積みにされていて、何とも窮屈な世の中になったものだとうすら寒くなる。
Twitterでもブログでも、定型文のような虚実織り交ぜたヘイトメッセージがやり取りされていて、とにかく居心地が悪い。
10年ほど前の韓流ブームがまるで嘘だったかのような事態だ。

個人的には、かつてのように必要以上にもてはやすことも、現在のように貶めることも、どちらにも嫌悪感に近い違和感を感じる。
臆病なせいか、そもそも国籍とか性別とかマイノリティを産みやすいものがブームになるのは、危険な匂いを感じて穏やかでいられなくなる。
もちろんブームによって消費されるようになると、その文化がより発展することは良くあることだ。
例えば、19世紀葛飾北斎伊藤若冲がヨーロッパで大ブームになって印象派絵画に大きな影響を与えたことは有名な事実だ。
でも、近年日本で巻き起こっているブームは、そういった健康的な文化交流とは毛色が違って見える。
むしろ、いたずらに卑屈あるいは攻撃的になることで何とか自我を保とうとしているように見えて、自らの文化に対する自信のなさを如実に表しているように感じられる。
やけに日本文化を持ち上げるテレビ番組が増えていることも、その一つと言える。

僕が小中学生だった90年代から2000年代前半も、様々なものが流行っていたという記憶があるが、少なくとも最近ほど国籍を意識することはなかった。
例えば、当時BoAさんが精力的に活躍していたが、彼女の音楽を韓流と括ったり国籍を気にして聴いていた人はほとんどいなかったはずだ。
国どうしの事情を気にして互いの文化を色眼鏡なしで楽しめないのは、何とももったいないし、とてつもなくダサいと思う。
近年の風潮への抗議の意味も込めて、現在に至るまで、僕自身が好きだと思ったものの中から、実はコリアン文化と関わりがあると後から判明したものをピックアップしてみた。

続きを読む