童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

僕の中の受動的ヤリマン

人には、いくつもの人格が宿っていると思う。
特に、比率はそれぞれ違うだろうが、どんな人間にも、いわゆる「男性」的な部分と「女性」的な部分があるはずだ。
僕の場合は、両者が半々に近い(もしかしたら女性が多いかも)くらいの割合で常にせめぎ合っている感覚がある。
人によっては気持ち悪く映ったり悩みの種になることかもしれないが、個人的には、特に芸術作品を楽しむときにお得感がある。
例えば、去年「逃げるは恥だが役に立つ」を観ていた時には、平匡さん視点でも楽しめるし、みくりさん視点でも楽しめた。
どちらも可愛く思いすぎて、最終的には十姉妹になって毎朝二人に微笑んで見つめてもらいたい、と訳の分からないことを言い出す始末だった。
この記事では、自分の中の女性的な部分について気が付いたことをまとめておく。

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性的指向について②

ブログ開始早々に書いた記事の中で、僕は自身の性的指向について、

同性愛者に近い両性愛者でありながら、無性愛者

と表現した。
これに関連して、ここ一か月ほど、自分の体を使って実験していたことがある。
その結果をまとめるとともに、ブログのテーマでもある自分の性的指向に関する考察を付け足したい。

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コリアン文化の洗礼

右派政権が長期化しているせいか、近年ずっと嫌韓ブームが続いている。
本屋に行けば、ヘイトに満ちた煽り文が踊る本が平積みにされていて、何とも窮屈な世の中になったものだとうすら寒くなる。
Twitterでもブログでも、定型文のような虚実織り交ぜたヘイトメッセージがやり取りされていて、とにかく居心地が悪い。
10年ほど前の韓流ブームがまるで嘘だったかのような事態だ。

個人的には、かつてのように必要以上にもてはやすことも、現在のように貶めることも、どちらにも嫌悪感に近い違和感を感じる。
臆病なせいか、そもそも国籍とか性別とかマイノリティを産みやすいものがブームになるのは、危険な匂いを感じて穏やかでいられなくなる。
もちろんブームによって消費されるようになると、その文化がより発展することは良くあることだ。
例えば、19世紀葛飾北斎伊藤若冲がヨーロッパで大ブームになって印象派絵画に大きな影響を与えたことは有名な事実だ。
でも、近年日本で巻き起こっているブームは、そういった健康的な文化交流とは毛色が違って見える。
むしろ、いたずらに卑屈あるいは攻撃的になることで何とか自我を保とうとしているように見えて、自らの文化に対する自信のなさを如実に表しているように感じられる。
やけに日本文化を持ち上げるテレビ番組が増えていることも、その一つと言える。

僕が小中学生だった90年代から2000年代前半も、様々なものが流行っていたという記憶があるが、少なくとも最近ほど国籍を意識することはなかった。
例えば、当時BoAさんが精力的に活躍していたが、彼女の音楽を韓流と括ったり国籍を気にして聴いていた人はほとんどいなかったはずだ。
国どうしの事情を気にして互いの文化を色眼鏡なしで楽しめないのは、何とももったいないし、とてつもなくダサいと思う。
近年の風潮への抗議の意味も込めて、現在に至るまで、僕自身が好きだと思ったものの中から、実はコリアン文化と関わりがあると後から判明したものをピックアップしてみた。

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カミングアウトとアウティング

カミングアウト:公にしていない自らの出生や病状、性的指向を表明すること。

アウティング:他人の出生や病状、性的指向を暴露すること。

僕は、これまで、はっきりと自分の性的指向について人に話したことはなかった。
特に、同性愛的な部分については、「そうなんじゃないの?」と聞かれても「そうではない」と答えてきた。
女性にも性的興奮を覚えることはあるので嘘ではない、と自分自身に言い訳をしながら答えていたと思う。
それも最近は嫌になってきて、最も付き合いのある友人には、このブログのことも含めて先日打ち明けた。
まあ、元々そう思っていただろうし、話したところで特に驚きもなかった。
納得されたというか、腑に落ちた、という風に見えた。

一方、去年はアウティングに関わる出来事が幾つか話題になった。
有名なところでは成宮寛貴氏の引退騒動だろうが、個人的には、一橋大学で起きた痛ましい事故が心に残っている。

www.bengo4.com

僕自身は、この問題の本質は、同性愛ということとは必ずしも関係がないと思っている。
告白したことをネタにして吊し上げようという輩は、同性愛に限らず異性愛の場合でも現れるし、当然非難されるべきだ。
(件のアウティング野郎はロースクールに通う学生だそうだが、守秘義務の発生する弁護士なんかは明らかに向いていないので多分辞めた方が良い)
同性愛という点をとりあえず置いておいても、一橋大学の対応は最悪だった。
ただ、ここまで問題化したのは、やはり同性愛者だと知られることが社会的な不利益に繋がるという意識を、多くの人が共有しているからだろう。
ある部分ではその通りだと思うし、僕自身が人に言えなかった理由も多少はそこにあると思う。
自ら差別を助長していると言われればその通りかもしれないが、そもそも、普段の社会生活において性的指向を明かさなければならない瞬間はほぼないので、放っておいて欲しいというのが素直な感想だ。
もちろん社会がもっと寛容に変わるべきとは思うが、「恥ずかしいことではないのだからカムアウトすべき」とアウティングに走る確信犯的な人たちは迷惑でしかない。

翻って、自分のことを考えてみたときに、カミングアウトを躊躇う一番大きな理由に思い当たった。
と同時に、アウティングに関することを考えていったとき、カミングアウトも少し考え直した方が良いかも知れないと思い始めている。
そもそも、このブログを書き始めたのは、自分自身の良く分からない性的指向を整理するためにも、嘘をつく必要がない匿名の書き捨て場を用意することが主な理由だった。
ブログを続けていれば、いずれ嘘偽りなく人と話せるようになるかと期待していた部分もあったのだが、少なくとも現時点では全く逆のことを考えている。
備忘録として、そう考えるに至った経緯を残しておく。

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落語の包容力

僕が落語にハマったきっかけは主に二つある。

一つは、数年前に参加した海外の学会で、ドイツの研究所に勤めるとある日本人の先生に言われた一言だった。

研究者は、噺家でなければならない

意味するところは、理学に携わる研究者は自分の研究を面白いストーリーにして人に聞かせる能力が求められる、ということである。
これを、学会会場のそばの湖畔に遊びに出かけた帰りにしみじみと話されて、何故だかひどく感心してしまったのだ。

大学院生だった当時から、僕は、理学というのは芸術に近いものだと考えていた。
研究が役に立つなどというのは幻想である。
税金を使って研究をさせてもらっている立場でこんなことを書くのは気が引けるが、役に立てようと思って研究をしたことは一度もない。
理学というのは、世の中に潜む不思議に対する好奇心から始まるもので、決して何かに役立てようとして始まるものではないからだ。
もちろん、結果として世の中の役に立つ成果が得られるかもしれない。
だが、それはあくまでも副産物で、それが目的では決してない。
したがって、研究を続けることを正当化するには、好奇心を社会と共有することが必要になる。
これが、「面白い話ができる」ということが研究者に求められる理由だ。
こんなことを元から考えていたから、研究と落語の関連を語られたときにとてもしっくりきたのだ。

もう一つは、ミーハーで恥ずかしいのだが、漫画だった。

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

 

昭和元禄落語心中」全10巻で、現在アニメも放送中だ。
第一巻が発売された時から買い続けて、素晴らしいセリフ、コマ遣い、ストーリーでここしばらくずっと僕の最もお気に入りの漫画である。
タイトルの通り噺家に関する話であるため、様々な噺がベストなタイミングと配置で出てくる。
これらをどうしても生で観たい、生で聴いてみたいと思った。
さらに、巻末のコーナーで寄席の紹介もされていて、常打ち小屋と言われる毎日興行をしている寄席が都内に4軒もあることを知り、しかも遅刻早退OKでものすごく入りやすいということを知った。
折角都内で学生をしているのだし、行ってみようと考えたのだ。

こんなきっかけを持って、最初に行ったのが池袋演芸場だった。
池袋演芸場は、芸劇の北側に位置し、池袋でも寄り付きにくい歓楽街の入り口付近にある。
しかも、一階でチケットを買うと地下に降りていくという、何か秘密めいた怪しい感じのする寄席だ。
ここで初めて生で落語を聴いた。
まず、舞台までの距離がとても近いことに驚いた。
さらに、どの噺家さんも面白い。
しかも、落語だけでなくマジック、ジャグリング、漫才、漫談、紙切りetcという、いわゆる色物が挟まって、決して飽きさせることもない。
こんな芸術があったなんて!!

これを境に、寄席に頻繁に通うようになった。
お気に入りの噺家さんができ、好きな根多が増えていくのにも時間はかからなかった。
同じ根多を別の噺家さんで聴くと、全く印象が違うことも知った。
昼の池袋演芸場で10人にも満たないお客さんというときに、以前観たときには爆笑をとっていた師匠が驚くほど滑りまくっているのにも遭遇して、落語が演者だけでなく客も含めた芸術だということを実感したりもした。
都内4軒の寄席は全て行ったし、YouTubeなどで昔の大師匠の落語を聴いたり、落語のCDを買ったりもするようになった。

ハマって高々4-5年くらいの僕ごときが語るのは大変おこがましい気もするが、僕なりにその魅力をまとめるならば、「包容力」だと思う。

とにかく、敷居が低い。
寄席は、遅刻早退OKもそうだが、予習復習も必要ない。
人の迷惑にならなければ飲食だってOKだ。
伝統芸能と呼ばれる他の芸事、歌舞伎にしろ能にしろ狂言にしろ、内容的にもお財布的にもとても敷居が高いイメージがある。
落語はそれとはまったく違う。
2000-3000円払って寄席に行けば、日本人なら必ず話している内容がわかるし、きっと笑える。
どこかでお弁当とお菓子を買って、何なら一杯ひっかけながら、気楽に座って観ていれば良いのだ。

そして、落語の噺は、どれも変態・変人に優しい。
どちらかと言うと、彼らに寄り添う内容が多い。

僕が最も好きな根多の一つに「野ざらし」という噺がある。
この噺は、後半に、酔っぱらった八つぁんが、釣り人達の隣で妄想に浸りながら滑稽にふるまうシーンがある。
その中で、咎められた八つぁんが怒って水をかき回し、寄ってきた魚を遠ざけてしまう。
普通ならば他の釣り人は怒るわけなのだが、怒りながらも言うのだ。

面白いからこの人見てましょう

僕は、何故だか、この台詞の優しさがもの凄く好きで、いつも何だか救われたような気がしてしまう。
自分がマイノリティであるという意識があるから、「いてもいいよ」と言われたような気がするのかも知れない。
ちょっとおかしな奴も愛しく思わせる、そんな包容力を、落語は持っている。
折角なので、最も好きな噺家である小三治師匠の「野ざらし」を貼っておく。


小三治 野ざらし

昭和元禄落語心中」にも出てくるフレーズだが、落語は「共感」を得るための芸だ。
「共感」を得るためには、市井に生きる人達に寄り添わなければならない。
弱い人、そそっかしい人、短気な人、頑固者…
様々なキャラクターが登場し、それを様々なキャラクターを持った演者が、様々な解釈でもって演じる。
だから、誰のことも受け止められる包容力があるのだろう。
あまたのキャラクターの中のどこかに自分がいて、しかもそれを愛しいと思える。
噺の中に、ひいては社会の中に自分の居場所を見つけられる。
言い過ぎかもしれないが、寄席に行くと、いつもそんなことを感じている。

息子のまなざし

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督との出会いはかれこれ何年前になるだろうか。
大学の授業が空いていたからとかそんな理由で恵比寿まで足を延ばし、まだリニューアルする前のガーデンシネマで「ロルナの祈り」を観たのが最初だったと思う。
とにかく僕にとっては衝撃的な作品で、エンドロールが終わって明るくなってもしばらく立ち上がれなかったことを覚えている。
余計な演出や説明が一切ないのに、描き方が丁寧で、理性で処理できない「情」のようなものを突き付けられた気分だった。
是枝裕和監督の「誰も知らない」を観たときの衝撃と似ていた気がする。

以来、ダルデンヌ兄弟の作品はなるべく追いかけるようにしている。
と言いつつ次の「少年と自転車」を観ただけで、直近の「サンドラの週末」は観に行けなかったので完全な俄かファンだ。
最新作の「午後8時の訪問者」は4月公開ということなので、是非行こうと思っている。

ダルデンヌ兄弟作品が好きになってから、過去作品も遡って観たいとずっと考えていた。
先日、ネットでCD・DVDをまとめ買いしていた時に、特に気になっていた「息子のまなざし」を発見して、購入した。
なかなかに見応えのある作品で、また性懲りもなく感想をまとめておこうと思う。

息子のまなざし [DVD]

息子のまなざし [DVD]

 
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MW ~エロスとストロゲー~

ずっと読みたいと思っていた「MW」を読んだ。
とんでもなく面白かったので、感想をまとめておきたいと思う。

MW 悪魔の化身―悪魔の化身 (My First Big)

MW 悪魔の化身―悪魔の化身 (My First Big)

 

MWは、1970年代に青年誌で連載されていた作品で、「猟奇殺人」や「同性愛」といったショッキングなテーマを扱っていることから、多くの手塚作品の中でも「黒手塚」の代表作として特別視されている。
銀行に勤める美貌の男・結城美知夫と、神父の賀来巌の二人を軸に話が展開される。
二人は、少年時代に沖ノ真船島という南島で出会い、その島に密かに貯蔵されていた化学兵器「MW」の漏出事故に巻き込まれる。
島民は、彼ら二人を残して全滅。
ところが、その事故は時の政権によって握りつぶされて、闇から闇へ葬り去られてしまう。
結城は、この事故の当事者たちを相手取って誘拐、殺人、恐喝を続け、MWを手に入れて世界を滅ぼそうと画策する。
一方の賀来は、結城の行為を知りながら、それを止めることができない。
結城と賀来は、少年時代からずっと同性愛の関係にあるのだ。
結城との関係を続けながら、彼は次第に、神父としての使命感や背徳感、人としての罪悪感に苛まれていく。

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