童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

同性愛映画のハッピー/バッドエンド ~ ムーンライト×ブロークバック・マウンテン

1か月以上前、忙しい期間に入る直前に日比谷で「ムーンライト」を観てきた。

同性愛映画は大好物なので、割と楽しみにしていた。
そして、期待以上に美しく、繊細な作品だった。
今頃になって感想をまとめるのもどうかと思うが、時間が経つほどに書きたくなってきたので、やはり残しておくことにする。

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お祝いではない言葉


超絶忙しい期間を経て、ようやくブログに記事を書くことができている。

そんな中、次の週末に、友人の結婚式に出席する。
しかも、人生初の友人代表スピーチを控えている。
気乗りしないままスピーチの内容を考えていたら、元々溜まっていたモヤモヤが噴き出して、お祝いには適さない気持ちが抑えられなくなってきてしまった。
僕の心のデトックスとして機能しているこのブログに、「お祝いではない言葉」を集めて発散しておこうと思う。
ただし、個人を特定されてもいけないので、適度にフェイクを入れておくことにする。

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男女の間の友情

「男女の間に友情は成立するのか」

これは、僕が高校生の頃に、保健体育のディベートの授業で実際に議題になったテーマだ。
授業そのものは、成立する立場のチームとしない立場のチームが互いに意見を戦わせる、というものであって、最終的な結論を出すことは目的ではなかった。
ちなみに、僕自身は成立するチームに配属され、女友達が多かったこともあって随分と鼻息荒く主張をしていたような記憶がある。
もし成立しえないのなら、僕のアイデンティティはどうなるのだ、と。

 

僕には、家族以外で最も親しくしている友人が二人いて、どちらも女性だ。
彼女たちとは高校の頃に出会い、主にオタク趣味の部分で意気投合して、今でも頻繁に会っている。
互いの家に泊まりに行ったこともあるし、3人だけで温泉に一泊したこともある。
同じ部屋で布団を並べて寝ても、我々の間では何の間違いも起きないという確信が共有されている。
そして、現実の友達の中でこのブログを見せたことがあるのも、この二人だけだ。
ある意味で、家族よりも自由に、ありのまま話せる関係なので、二人に救われている部分はかなり大きいと思っている。

3人であちこち出かけたり、飲み屋に行ったりしていると、時折、他の人から「どういう集まりなのか?」といった質問をされることがある。
会話の内容からすると、多分「オフ会」が一番適当だと思われるが、一応高校の元同級生だし「プチ同窓会」になるのだろうか。
しかし、そもそも、このような疑問を持たれる原因は、ほぼ間違いなく僕にある。
僕自身は、好奇の目で見られることを何とも思っていないが、二人を巻き込んでしまっている点については少なからず申し訳なく思っている。
かと言って特に良い対策もないので、向こうに彼氏ができたら誘う回数を減らす位しかしてこなかったのだけれども。
基本的に、男性に生まれて良かったと思うことがほとんどだが、この点についてのみ、女性であれば楽だったかもと思うことがある。
一方で、もし女性だったらここまで仲良くなっていただろうか、とも思ったりする。

 

さて、元に戻って、「男女の間の友情」について現在の視点から考え直してみたい。
高校時代の僕が「成立する」と主張した根拠は、とどのつまり、自分が女性とも友達だったからだ。
今でも、いわゆる"セックス"としての生物学的「男女」の間のことを指すならば、強い実感を伴って「成立する」と断言できる。
でも、そうではなくて、いわゆる"ジェンダー"としての「男」と「女」(社会的・文化的存在)を指した場合には、果たして「成立する」と言えるだろうか。
言い換えるならば、自分は果たしてジェンダー的な立場で考えたときに「男」だと自認できるだろうか、という疑問である。
正直に言うと、僕は自分が「男」であるということに自信はない。
僕の性自認をなるべく正確に表すなら、「女ではない」だからだ。
女でないからと言って、男である保証はない。

そうなってくると、「男女の間の友情」が成立する根拠はなくなってしまう。
ある部分では、むしろ、「成立しない」ことが「男女」たらしめるような気さえしている。
何故なら、「友情」は、互いを必要とし過ぎないところが重要だと思うからだ。
僕が、二人の友人と長く付き合ってこれている理由の一つは、3人とも基本的に自分の世話を自分でできるところにある気がしている。
もちろん、場面によって互いに弱音を吐きあったり精神的に支え合うことはあっても、依存し過ぎることは決してない。
言い方を換えれば、友情とは、対称な関係の上に成り立っている気がする。
一方で、ジェンダー的な「男女」はどうだろうか。
そもそも「男」と「女」と呼んで社会的あるいは文化的に棲み分けていることからすると、互いに何らかの役割があって補い合う関係のように思える。
つまり、関係の非対称性に焦点が当たっている。
とすると、「男女」という呼び方そのものが友情と矛盾する、ということにならないだろうか。
世の中に性別の異なる友人関係は無数にあるだろうが、その関係において、両者は「男」でも「女」でもないのではないか。

考えてみれば、僕はこれまでの人生でずっと、人と話をするときに相手の性別を特に意識したことがない。
大学生くらいになるまでは、誰しもそうなのだと思って生きてきたのだが、どうもそうではないらしい。
異性関係において、相手を自分とは違う種類の存在として認識した場合には、確かに友人関係は結びにくいかもしれない。
「男女の間に友情は成立しえない」という人間こそが、「男」あるいは「女」としてノーマルな状態なのかもしれない。

 

かつて、高校生だった頃は、毎日机を並べて知った顔に会うことは、ごく当然のことだと思っていた。
大学に入り、さらに社会人になって、いかにそれが異常なことだったかを実感している。
あの当時よりも、友人一人一人の価値は間違いなく高くなっている。
体験を共有する場が与えられない分、大人になってから友達を作るには労力がいる。
ジェンダーだ何だと下らないことは気にせず、これからも友人は男女問わず大事にしていくつもりだ。

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきた。

元々、森見登美彦氏の作品が大好きで、制作決定の報せを受けてから、ずっと楽しみに待っていた。
森見作品で人間が主人公のものは、童貞こじらせて自意識こねくりまわしているようなのが多いので、共鳴するところが多かったのだろう。
個人的には「太陽の塔」が最も好き、というか肌に合う。
時系列では多分「太陽の塔」、「四畳半神話大系」、「夜は短し歩けよ乙女」の順だったと思うが、作品を重ねるごとに読みやすくなっていった印象がある半面、独特の鬱屈具合は薄れていった感があった。
四畳半神話大系」は、アニメ版も素晴らしくて、ポップさと理屈っぽさの同居が夢のような世界観で実現していることに感動したのを覚えている。
今回はそのアニメ版と同じスタッフということで、同様の体験が
できるのでは、と非常に期待していた。
そして、その期待は叶えられたように思う。


『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告

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死の魅力 ~リリィ・シュシュのすべて~

最近気になるニュースがあった。

www.asahi.com僕の素直な感想は、4人に1人とは随分少ないな、だった。

僕自身は、中学1年生の時によく自殺したいと考えていた。
大学に入学する際、ストレスチェックテストのようなもので、「自殺を考えたことがあるか?」という質問に愚かにも「はい」と答えたら、問診でしつこく色々と話を聞かれて閉口したことがあった。
あの時にも自分はマイノリティなのか、と思ったが、まさか世の75%の人が自殺を考えたことがないとは。
面倒を避けるためにアンケートで嘘を吐いた人が多いだけではないか、とどこかでいまだに訝しんでいる。

仕事場の同僚の方からの強い薦めもあって、ずっと観ようと思っていた岩井俊二監督の代表作「リリィ・シュシュのすべて」を観た。

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

 

噂に違わぬ力作で、鑑賞後は数日の間、うまく感想をまとめられずにいた。
ようやく、上記の自殺の話題と重ねて、ぼんやり見えてきたので、備忘録のために残しておくことにする。
少し前の作品でもあるし、内容にも踏み込んで書こうと思う。
未鑑賞でネタバレを避けたい方は、読まないで欲しい。

 

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10代の主題歌

先日、YUKIさんが出演したSONGSを観ていて、10代の終わりくらいの頃、自分のテーマソングはこれだと確信していた曲があったことを思い出した。
改めて、自分のiPodで聴きなおして、確かに相変わらず共鳴するところがあるし、しかも自分の今の仕事にも通じている部分があったことに驚いた。
折角なのでまとめておこうと思う。

 

高校卒業~大学生の頃、自分は世の中のことが面白くて仕方なかった。
今もスタンスとしてはあまり変わっていないが、当時はもっと夢見るようにそう思っていた。
何でも知りたかったし、何でもやってみたかった。
好奇心こそが自分のアイデンティティ、みたいな。
どれだけ行動に移せていたかはさて置き、そう思っていたことは確かだ。
当時、その気持ちを具現化したような2曲が同じくらいのタイミングで発表され、本当に良く聴いていた。

YUKIさんの「JOY」と東京事変の「透明人間」だ。

JOY

JOY

透明人間 (アルバムバージョン)

透明人間 (アルバムバージョン)

トラックももちろん大好きなのだけれども、10代の僕は特に歌詞に魅かれていた。

 

まずは「JOY」から。
この曲のテーマは最後のフレーズに凝縮されている。

死ぬまでどきどきしたいわ

死ぬまでわくわくしたいわ

まさに、好奇心をそのまま曲にした作品である。
でも、もっとも素晴らしいと思うのは、好奇心の先が描かれているところだ。
同じフレーズで反対の意味の言葉が一つの曲に同居している部分に現れている。
1サビ

しゃくしゃく余裕で暮らしたい

約束だって守りたい

誰かを愛すことなんて

本当はとても簡単だ

 ラスト前

いつまでたってもわかんない

約束だって破りたい

誰かを愛すことなんて

ときどきとても困難だ

世界は面白い。
それを学んだり体験したりすることは価値のあることだ。
でも、それが良いもの/悪いものと判断するか、好きになるか嫌いになるかは、その先の問題だ。
この曲は、その問題に対して、どちらでも良い、と回答している…と思っている。
時間が経てば答えは変わるかもしれないし、立場でだって変わるかもしれない。
先のことはどうでも、大事なことは、そもそも知ろうとする好奇心(JOY)である。

個人的には元々の歌詞カードで

運命は必然じゃなく偶然でできてる

となっている部分が、後に本人によって

運命は必然という偶然でできてる

に変更されたところもたまらない。
変更後の方がはるかに素晴らしい。

 

次に「透明人間」。
この曲は一貫して、世界の事物に対して常に混じりっ気なしの気持ちで向き合いたい、という心が描かれている。
「JOY」ではどちらでも良いと回答されていた部分に対して、良いとか悪いとかそもそも洒落くさい、というスタンスである。
そして、いつか透明でなくなってしまう(濁ってしまう)ことへの漠然とした恐れ、実はもう既にそうなっているのかも知れないという焦りが入る。

二番の冒頭

僕は透明人間さ ずっと透けていたい

本当はそう願っているだけ

何かを悪いと云うのはとても難しい

僕には簡単じゃないことだよ

大サビ前

恥ずかしくなったり病んだり咲いたり枯れたりしたら

濁りそうになったんだ

真面目な林檎さんらしい歌詞だと思う。
恥ずかしいという感情が「濁り」に繋がるというのは、確かにその通りだとハッとさせられる。

 

この二曲を聴きながら、僕は大学で理学の道に進み、そのまま幸運にも学位を取得して現在に至る。
なぜ、理学を選んだのか、と言えば、結局これらの楽曲で示される通り、好奇心こそが重要と思っているからなのだろう。

理学は、工学や医学といった分野と違って、人の役に立つような研究はしない。
役に立たないと言ったら語弊があるが、少なくとも役に立てようということが出発点にならない。
分からないことや説明できないことが現れたときの「何故?」から始まる。
例えば、実験をしていると、時たま予想に反する結果が得られることがある。
その時こそが、最も研究をしていて楽しくなる瞬間だったりする。
理学分野の研究者は、人間の好奇心の象徴であり、役に立たないもの(文化)を担うものとしては、むしろ芸術家に近い。
10代の後半に、上の二曲を主題曲として暮らしていた僕が理学を選んだのは、必然という偶然だったのだろう。

 

さて、この記事を書いていて、上記の二曲は、いずれも「子ども」の存在が透けて見える作品であることに気が付いた。
「JOY」は、YUKIさんの産休明けの作品であるし、「透明人間」も一人称が「僕」な分、少なからず林檎さんのご子息の存在を感じる。
もしも、両者が母になったことで、現れてくる視点なのだとすると、なかなか面白いことだ。
確かに、混沌に対して快不快を訴えるだけだった存在が、言葉を得て世界が整理され、日ごとに変貌を遂げる様を傍で見ていると、人間の本質の一つに、間違いなく「好奇心」が含まれている、と実感するものなのかも知れない。

それにしても、好奇心は旺盛なくせに、何故、童貞を捨てようとは思わなかったのだろう。
無性愛的ではあったけれども、トライしてみる位はしても良かったはずだ。
好奇心はあっても勇気はなかった、ということか。
いや、単にモテなかったということかも知れない。

一人暮らし適性

世の中には、一人暮らしに向いている人間と向いていない人間がいる。
2年ほど一人暮らしを継続してみて、僕は前者に含まれるのだということを実感している。

元来、ほぼ一人っ子として育てられてきたこともあって、一人○○には抵抗がない。
一人レストラン、一人旅、一人映画、一人寄席、一人ライブ、一人水族館、etcetc
興味がないからやらないだけで、一人焼き肉、一人カラオケ、一人ディズニーも平気でできるだろう。
もちろん、誰かと一緒に体験を共有する喜びも理解できるし、それが嫌いなわけでは決してない。
でも、体験を独り占めできる喜びというか贅沢感も同じくらい好きなのだ。
一人だと、相手の反応や希望に考えを回す必要がないだけ気が楽ということもある。
とは言え、大学院を出るまでずっと実家暮らしだったし、両親との関係も良好だったので、一人暮らしがしたいとも思っていなかったし、自分に向いているかは良く分からなかった。
ただ、ある部分では、一人暮らしを始めたら、寂しさでやりきれなくなるような夜が来るのではないかと期待していた。
自分にも性欲が湧き上がってくる日が来るのではないか、と。

 

しかし、期待も虚しく、とりあえず今までのところ一人暮らしが楽しくて仕方ない期間が続いている。
とにかく楽だ、ということに尽きる。
自分の食べたい料理を作って食べ、したい恰好でウロウロして、好きな時間に好きなことをしていられる。
どうも自分は、実家でそれなりに気を遣っていたらしい。
確かに、クリームシチューをご飯にかけたり、夏場に家の中では基本全裸だったり、ということは、流石に実家ではしていなかった。

それに、元々、一通りの家事ができたことも大きいと思う。
大学院の頃、全く家事ができなくて実家のお母さんに週一で片付けに来てもらっている人の話を聞いたことがあるが、その人はさっさと結婚を決めていた。
周りを見回してみても、結婚している男性はどちらかと言うと、家事能力に問題ありの奴が多い気がする。
結婚するかどうかは、つまるところ、必要に迫られるかどうか、強い意志の有無が重要なファクターになるのだと痛感している。

 

さて、一人暮らしを続けてみて、二つ、考え方に変化が起きた。

一つは、「誰かと暮らす」ということへのハードルが高くなった。
実家に暮らしていた頃は、割と誰かと共同生活するのは難しくないと軽く考えていた節があった。
当時はまだ学生で、気持ちに余裕があったせいもあるかも知れない。
しかし、一人暮らしをするようになって、こんな人とは暮らせないというのが増えてきた。
例えば、古くなった食品を平気で捨てる人、潔癖の人、自分の時に終わってもトイレットペーパーを替えない人、人の趣味を否定してくる人。
つまらないことも多いが、楽な生活を知ったことで、どんどんと許容の幅が狭くなってしまっている。
と同時に、自分のこだわりみたいなものが顕わになってきて、ちょっと面白くも感じている。

もう一つは、SNSに自分の料理をあげている人達の気持ちが理解できるようになった。
確かに、誰かに見せるという気持ちがないと、料理というのはいくらでも手を抜くようになる。
特に、盛り付けが顕著だ。
夏場、冷やし中華を良く作るのだが、一人暮らしになってから、具が麺の上に載った状態で食べていない。
何故なら、麺を茹でながら具材を切って皿(というか丼)に入れていくので必然的にその順番になる。
他にも、作りながら食べてしまうので、全ての料理を揃えてから、ということも少なくなった。
この生活を改めるため、ちゃんと文化的な食事をするために、SNSで公開という適度な緊張感を利用することは、成程、意味のあることかも知れないと考えるようになった。
ただ、自分で実践しようという気には今のところなっていない。

 

先日、仕事場で同僚と上記のような話をしたら、2年くらいではまだ楽しいだろう、辛いのは10年くらいしてから、と言われた。
確かに、それはそうかも知れない。
病気も、ノロウィルスに罹ったくらいで、数日寝込むレベルのものには遭っていない。
そもそも、老化していけば、体が今のようには動かせないことも出てくるだろう。
そして、何より、両親が亡くなった時には、かなり考え方が変わる予感がある。
向こう10年したら、今のこの楽しい気持ちが薄れて、つがいを求める気持ちが立ち上がってくるのだろうか。
自分の心境の変化も楽しみつつ、しばらくは一人暮らしを継続していくつもりだ。