童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

利他主義の抱える矛盾 〜美しい星〜

父と二人で「美しい星」を観に行ってきた。

父親と二人っきりで出かけるなど、何年振りだろうか。
映画まで限定すると、もしかしたら小学生以来かも知れない。
最近、懇意にしていた友人が亡くなって、卒寿を迎えたばかりの祖母が気を落としているらしいということで急遽実家に帰ったのが、まさか介護者の方の息抜きに付き合うことになろうとは。
当の祖母は案外元気だったので良かったのだけれども。

さて、「美しい星」であるが、僕自身は吉田大八監督に惹かれて、父は三島由紀夫の原作に惹かれて希望が一致した。
それぞれ入り口が違った分、観賞後の感想戦では、担当の違うヲタ同士の会話みたいになって思いのほか楽しかった。
とにかく、二人とも意見が一致していたのは、単純に映画として非常に面白かった、ということだった。
スピード感、先の読めないストーリー展開、特徴的な音楽の使い方。
2時間を超える長めの作品だったのに、全く飽きる瞬間がなかった。
そして原作同様、とても「へんてこりん」な映画だった。
先週日曜の時点で既に1日1回の上映になっていたので、もう公開終了間近かも知れない。
興味のある方は、是非とも急いで観に行ってもらいたい。


美しい星 - 映画予告編

本作は、人間の思考というか思想の抱えるとある矛盾について指摘している、と僕は思っている。
その指摘は、別の場所でも見かけていたのだけれども、その共通点に思い当たったので、書き留めておきたいと思う。

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生と死の不可分性 ~夜明け告げるルーのうた~

先日、「夜は短し歩けよ乙女」の感想をまとめたばかりだが、湯浅監督のオリジナル作品「夜明け告げるルーのうた」が公開されている。
先月19日に公開でまだまだ観られるだろうと高を括っていたら、何と残り数日で公開終了と言うことで焦って観に行ってきた。
素晴らしい作品だった。
あとほんの数日しか残っていないが、是非とも一人でも多く劇場に足を運んでもらいたいと思っている。
そして、この作品について語り合える相手が増えることを願っている。

というか、湯浅監督の想像力と創造力は、おそらく人類の宝だと思われるので、これから先、どんどんと素晴らしい作品を世に出して評価を受けていく方であることは間違いない。
この世界の片隅に」で片淵監督が一気に注目を集め、過去作品である「アリーテ姫」などが再評価されている現状を見るに、このタイミングで「夜明け告げるルーのうた」を劇場で観ておくことは、後々人に自慢できるだろうことは想像に難くない。


映画『夜明け告げるルーのうた』PV映像

本作は、子どもから大人まで、まさに老若男女問わず楽しめる作品だ。
湯浅監督らしい自由なアニメ表現炸裂で、ストーリーをとりあえず置いておいても、2時間十分楽しめる映像に仕上がっている。
しかし、僕は子どもにこそ、是非観てもらいたい作品だと思っている。
何故なら、とりわけ「生」と「死」の取り扱い方が、極めて健全だと感じるからだ。
その視点から、僕なりの感想をまとめておきたいと思う。

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結婚との相性

僕には結婚願望がない。

ゲイよりのバイな上に、この歳まで恋人一人作らないで(作ろうともしないで)生きてきたので、当然と言えば当然なんだけれども、未来のことを考えても結婚したいとは全く思わない。
あるのは、このまま孤独死してしまうのは気が引けるから、同居人が欲しいという気持ちである。
それを結婚願望と呼ぶならば別だが、僕の場合、セックスはおろか毎日同じ部屋で寝起きするのも受け入れがたいので、同居というかルームシェア願望である。
世間一般では、これを結婚とは呼ばないだろう。

 

一方で、本当は自分は結婚には向いているとも思う。

恋愛感情が欠損しているので、浮気の心配がない。
相手を性的に好きになることもなければ嫌いになることもないので、人間的な相性さえ合えば、極めて長く付き合っていけるはずだ。
それに、心根の女子成分も高めなので、世の男性よりも対女性の気遣いはできる方だと思う。
共感力も高い。
加えて、子供の頃から大人の事情で振り回されてきた部分があるので、家庭内の修羅場に対して我慢強い方だと思っている。
恋愛には全く向かないけど、結婚には向いているのかも知れない、というのは高校生くらいの頃から感じていたことだ。

恋愛なし、セックスなし、ほぼルームシェア、でもゆるく共同体を作りたい、という点で完全に希望が合致するならば、もしかしたら結婚もありかも知れない。
子どもも、自分のと思うとおぞましいけれども、他で作ってきてくれる分にはきっと可愛がれる気がする。
こんな世の中なので、探せば同じ気持ちの女性は存在するような気がするが、わざわざ探しに行く意欲がないので、結局一人暮らしを満喫してしまっている。
たまに、友達が泊まりに来たらそれでいいじゃん、という結論だ。
これから先、両親が亡くなったり大病をしたりすると、また考えも変わるかもしれない。
でも、性的な指向は変わりようがない気がするので、結婚相手に求める条件はその時も同じだろうと思われる。

 

しかし、結婚式にはすこぶる向かないだろう。

前々回の記事で友人の結婚式の準備中に湧いてきたモヤモヤを書きなぐったが、実際に出席して、つくづく自分には無理だと痛感した。
終始、疎外感を感じて居たたまれなかった。
あの居たたまれなさは、「君の名は」を観たときの気持ちと一緒だった気がする。
圧倒的な「正しさ」というか「正常さ」を前にして、それに乗れない自分への絶望感と自己否定で勝手に傷ついてしまった。

ツーショット写真のスクロール、謎のランタンを夜空に浮かべる演出、西野カナとCarly Rae JepsenのBGM(彼女たちに罪はない)、二人の写真がプリントされたチロルチョコ
中でも違和感しかなかったのは結婚式での牧師の説教だった。
「男性と女性とは別の生き物であって…」
「新郎、あなたの横にいる人は女性です、新婦、あなたの横にいる人は男性です…」
男だか女だか良く分からないような人間としては、段々と後ろ暗い気持ちになってきて、最終的には「同意」を意味するアーメンさえ自分には唱える権利がないのではないかと思えてきてしまった。

 

さて、実は最近、僕の実家に縁談があった。
母の古くからの友人から、娘を紹介したい、という連絡があったというのだ。

正直に言うと、最初に恐怖感が湧いた。
縁談を受ける可能性などあるわけがない。
自分のことをある程度知っている友人たちですら受け入れてくれるかどうか怪しい上記のことを、赤の他人が飲むはずがないのだ。
しかし、三十路がらみになってぶらぶらしているのも事実で、嘘を吐いて断るのも忍びない。
ましてや、母の友人の娘ともなれば、付き合いもあるだろうし、無下に扱ってしまって良いものなのか。
事情も明かせずに断ることになる母にも相手にも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

実際には、自分が断るまでもなく、母が一筆書いてくれた。
確かに、良く考えてみれば、母は僕の特性に気付いている節があるし、何より彼女自身が40近くまで独身を貫いた果てにバツイチ・コブツキの幸薄そうな男(父)と結婚した前科がある。
周りにやいのやいの言われることに、さぞかし辟易していたことだろう。
何度目か分からないが、母が「母」になってくれて良かったと心底思った。
父は何か言いたげだったが、流石に友人の娘という重さに口出ししてこなかった。

ついに、自分も縁談が来るような年齢になったのだとしみじみ思う。
そして、結婚には良かれ悪しかれ「家」が関係してくることを忘れていた。
将来的に自分と全く同じ考えの女性が現れて結婚を決めたとして、その「結婚」を両家が祝福できるかはまた別の話である。
特に、うちの父親は家族に対するこだわりが強い分、受け入れられない可能性が高い。
それに、先日預金の話をしていた時に、「それは結婚式用に…」などと言っていたような気もするので、式を期待している節もある。
とんでもない話だ。

 

考えれば考えるほど気が滅入ってくる。
やはり、自分には結婚願望がないのだろう。

同性愛映画のハッピー/バッドエンド ~ ムーンライト×ブロークバック・マウンテン

1か月以上前、忙しい期間に入る直前に日比谷で「ムーンライト」を観てきた。

同性愛映画は大好物なので、割と楽しみにしていた。
そして、期待以上に美しく、繊細な作品だった。
今頃になって感想をまとめるのもどうかと思うが、時間が経つほどに書きたくなってきたので、やはり残しておくことにする。

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お祝いではない言葉


超絶忙しい期間を経て、ようやくブログに記事を書くことができている。

そんな中、次の週末に、友人の結婚式に出席する。
しかも、人生初の友人代表スピーチを控えている。
気乗りしないままスピーチの内容を考えていたら、元々溜まっていたモヤモヤが噴き出して、お祝いには適さない気持ちが抑えられなくなってきてしまった。
僕の心のデトックスとして機能しているこのブログに、「お祝いではない言葉」を集めて発散しておこうと思う。
ただし、個人を特定されてもいけないので、適度にフェイクを入れておくことにする。

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男女の間の友情

「男女の間に友情は成立するのか」

これは、僕が高校生の頃に、保健体育のディベートの授業で実際に議題になったテーマだ。
授業そのものは、成立する立場のチームとしない立場のチームが互いに意見を戦わせる、というものであって、最終的な結論を出すことは目的ではなかった。
ちなみに、僕自身は成立するチームに配属され、女友達が多かったこともあって随分と鼻息荒く主張をしていたような記憶がある。
もし成立しえないのなら、僕のアイデンティティはどうなるのだ、と。

 

僕には、家族以外で最も親しくしている友人が二人いて、どちらも女性だ。
彼女たちとは高校の頃に出会い、主にオタク趣味の部分で意気投合して、今でも頻繁に会っている。
互いの家に泊まりに行ったこともあるし、3人だけで温泉に一泊したこともある。
同じ部屋で布団を並べて寝ても、我々の間では何の間違いも起きないという確信が共有されている。
そして、現実の友達の中でこのブログを見せたことがあるのも、この二人だけだ。
ある意味で、家族よりも自由に、ありのまま話せる関係なので、二人に救われている部分はかなり大きいと思っている。

3人であちこち出かけたり、飲み屋に行ったりしていると、時折、他の人から「どういう集まりなのか?」といった質問をされることがある。
会話の内容からすると、多分「オフ会」が一番適当だと思われるが、一応高校の元同級生だし「プチ同窓会」になるのだろうか。
しかし、そもそも、このような疑問を持たれる原因は、ほぼ間違いなく僕にある。
僕自身は、好奇の目で見られることを何とも思っていないが、二人を巻き込んでしまっている点については少なからず申し訳なく思っている。
かと言って特に良い対策もないので、向こうに彼氏ができたら誘う回数を減らす位しかしてこなかったのだけれども。
基本的に、男性に生まれて良かったと思うことがほとんどだが、この点についてのみ、女性であれば楽だったかもと思うことがある。
一方で、もし女性だったらここまで仲良くなっていただろうか、とも思ったりする。

 

さて、元に戻って、「男女の間の友情」について現在の視点から考え直してみたい。
高校時代の僕が「成立する」と主張した根拠は、とどのつまり、自分が女性とも友達だったからだ。
今でも、いわゆる"セックス"としての生物学的「男女」の間のことを指すならば、強い実感を伴って「成立する」と断言できる。
でも、そうではなくて、いわゆる"ジェンダー"としての「男」と「女」(社会的・文化的存在)を指した場合には、果たして「成立する」と言えるだろうか。
言い換えるならば、自分は果たしてジェンダー的な立場で考えたときに「男」だと自認できるだろうか、という疑問である。
正直に言うと、僕は自分が「男」であるということに自信はない。
僕の性自認をなるべく正確に表すなら、「女ではない」だからだ。
女でないからと言って、男である保証はない。

そうなってくると、「男女の間の友情」が成立する根拠はなくなってしまう。
ある部分では、むしろ、「成立しない」ことが「男女」たらしめるような気さえしている。
何故なら、「友情」は、互いを必要とし過ぎないところが重要だと思うからだ。
僕が、二人の友人と長く付き合ってこれている理由の一つは、3人とも基本的に自分の世話を自分でできるところにある気がしている。
もちろん、場面によって互いに弱音を吐きあったり精神的に支え合うことはあっても、依存し過ぎることは決してない。
言い方を換えれば、友情とは、対称な関係の上に成り立っている気がする。
一方で、ジェンダー的な「男女」はどうだろうか。
そもそも「男」と「女」と呼んで社会的あるいは文化的に棲み分けていることからすると、互いに何らかの役割があって補い合う関係のように思える。
つまり、関係の非対称性に焦点が当たっている。
とすると、「男女」という呼び方そのものが友情と矛盾する、ということにならないだろうか。
世の中に性別の異なる友人関係は無数にあるだろうが、その関係において、両者は「男」でも「女」でもないのではないか。

考えてみれば、僕はこれまでの人生でずっと、人と話をするときに相手の性別を特に意識したことがない。
大学生くらいになるまでは、誰しもそうなのだと思って生きてきたのだが、どうもそうではないらしい。
異性関係において、相手を自分とは違う種類の存在として認識した場合には、確かに友人関係は結びにくいかもしれない。
「男女の間に友情は成立しえない」という人間こそが、「男」あるいは「女」としてノーマルな状態なのかもしれない。

 

かつて、高校生だった頃は、毎日机を並べて知った顔に会うことは、ごく当然のことだと思っていた。
大学に入り、さらに社会人になって、いかにそれが異常なことだったかを実感している。
あの当時よりも、友人一人一人の価値は間違いなく高くなっている。
体験を共有する場が与えられない分、大人になってから友達を作るには労力がいる。
ジェンダーだ何だと下らないことは気にせず、これからも友人は男女問わず大事にしていくつもりだ。

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女」を観に行ってきた。

元々、森見登美彦氏の作品が大好きで、制作決定の報せを受けてから、ずっと楽しみに待っていた。
森見作品で人間が主人公のものは、童貞こじらせて自意識こねくりまわしているようなのが多いので、共鳴するところが多かったのだろう。
個人的には「太陽の塔」が最も好き、というか肌に合う。
時系列では多分「太陽の塔」、「四畳半神話大系」、「夜は短し歩けよ乙女」の順だったと思うが、作品を重ねるごとに読みやすくなっていった印象がある半面、独特の鬱屈具合は薄れていった感があった。
四畳半神話大系」は、アニメ版も素晴らしくて、ポップさと理屈っぽさの同居が夢のような世界観で実現していることに感動したのを覚えている。
今回はそのアニメ版と同じスタッフということで、同様の体験が
できるのでは、と非常に期待していた。
そして、その期待は叶えられたように思う。


『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告

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