宇多田ヒカル女史の約6年ぶりのアルバム「Fantôme」がリリースされた。
既に多くの人がこの作品を聴き、素晴らしいレビューが次々と挙がっているこの状況で、これを取り上げることは気がひけるのだけれども、彼女の存在は僕にとっても大きなものなので記事にしておきたい。
彼女がデビューしたとき、僕はまだ小学6年生だった。
ソファーの前で少し愁いを含んだ表情で歌う彼女を見て、そしてそれまで聴いたことのなかった音楽に出会い、当時の僕は大きな衝撃を受けた。
その後ずっと彼女の一人のファンとして、彼女の音楽とともに大人になった。
もっと言うとあの時にR&Bと出会ったから、中高とFMラジオを聴くようになって、まず洋楽R&B(Mary J BligeとかToni BraxtonとかSadeとか)の沼に沈み、その後も色んな音楽の世界を知ることになった。
その意味で、彼女は弱冠15歳にして日本の音楽界に革命を起こした人であったけれども、個人である僕にとっても、音楽の世界を大きく広げるきっかけをくれた人だった。
しみじみ思うのは、宇多田ヒカル氏、椎名林檎氏、Cocco氏など、綺羅星のごとき才能が、最も活動していた時に最も多感な時期を生きられたことは、本当に幸せだったということだ。
いや、彼女たちが好きになったから、いまこんな大人になって、こんな風に思えているとも言えるから、順番が逆かもしれない。
さて、彼女の復活を喜んでいるファンの一人として、先週放送されたSONGSは大変素晴らしく、興味深い内容だった。
何より嬉しかったのは、僕が最も彼女の魅力だと感じている「詩人」としての一面を、同じく「詩人」である井上陽水氏が語ってくれたことだ。
デビュー当時、日本人離れしたリズム感とメロディセンス、帰国子女である故の英語の発音の良さなどに注目が集まって日本語詞については多く語られていなかった気がする。
語られていたとしても、「15歳とは思えない」とか「早熟」とかが枕に付いていて、初期の歌詞によく見られた「無理して大人っぽくしてる少女」感が主な評価対象だったと思う。
けれども、もっと彼女の日本語の素晴らしさ・巧みさは評価されていいはずだ。
彼女の詩を読んで歌を聴いていると、日本語のポテンシャルを良く理解し、それを最大限に引き出そうとするアイデアや挑戦が詰まっていることが分かる。
しかも、ちゃんと「歌」として成立していて、それでいて描かれる内容は、間違いなく誰の心にもあるものを蘇らせる力を持っている。
お会いしたことはないが、相当な勉強家でかつ日本語愛好家であろうと想像する。
今回のアルバムを聴いていても、だいぶ印象が変わったとは言え、相変わらず日本語の素晴らしさは変わらなかった。
彼女のお母さんとの関係や、音楽的な魅力については既に多くの記事が挙がっているので、ここでは、僕なりに、彼女の日本語詞の魅力をまとめておきたいと思う。
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