童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

ドリーム

しばらく振りに映画を観に行ってきた。
前評判の通り、ちょっと文句の付けようもない快作だったので、僕も自分なりに感想をまとめておこうと思う。


映画『ドリーム』予告A

「ドリーム」(原題「Hidden Figures」)は、NASAマーキュリー計画の成功の裏で偏見や差別と闘いながら活躍した3人の黒人女性たちを描いた作品である。
邦題は最初、「ドリーム 私たちのアポロ計画」であったところを「マーキュリー計画を描いているのに何故?」という批判の声を受けて変更された、という経緯がある。
それにしても、原題の良さが全く反映されず、何ともぼんやりとしたタイトルになってしまって残念だ。

 

ここまで端的に、「差別」に対する反論を示した作品は無いと思う。

本作に限らず、「差別」を描いた作品は多いし、その実態をもっと生々しく、もっと残酷に描いたものもある。
しかし、「何故、差別はいけないのか?」という疑問に対しては、被差別者に対する同情心を煽ることで応えるものが多かったように思う。
あるいは、誰でも被差別者になりうると、観客の想像力を補完することで応えてきた。
しかし、これらは間接的な答えであって、頭では理解できても実感を伴わない。
特に、日本のようなほぼ単一民族の国にとっては、なおのことその傾向が強いように思う。

これに対して、「ドリーム」は、真正面から答えている。

Q. 何故、差別はいけないのか?
A. 非効率だから。

単純明快な答えである。

しかも、これを作品の中で明確に示してくれる。
それが、作中何度も現れる「トイレ」のエピソードである。
主人公の一人であるキャサリンは、計算係としてマーキュリー計画の中枢とも呼ぶべき部署で働いているものの、黒人専用トイレが別の建物にあるために、日に何度も往復しなければならない。
「差別」が、時間と労力の完全な浪費を産み出している。
映画後半で、主人公たちと対極に位置する白人男性が、毎日キャサリンの走っていたコースを辿るように全力疾走するシーンは、痛快そのものだ。
見事な主客の倒置として物語的なクライマックスを盛り上げるばかりでなく、「差別」の滑稽さ・非生産性を二つの立場から追体験することのできる素晴らしいシーンだったと思う。

もう一つ観ていて感じたことは、「科学」という分野が元々持っている平等性だ。
この作品が、ここまで「差別」の愚かしさをうまく描けた理由の一つであると思う。
自分も研究者の端くれをしているので良く分かるが、科学技術の世界において、能力の優劣ははっきりと見分けられる。
「できる」「できない」あるいは「正しい」「正しくない」の前では、肌の色も性別も国籍も全く問題にはならない。
能力の差だけが重視される科学技術の世界においては、誰にも等しく機会が与えられるべきなのだ。
本作のように、数学的な発想力や機械的な技術力、先見性や柔軟性と言った特定の基準において抜群に優秀な人間は、誰の目にも明らかであるし、その才能を重用しない愚かしさは誰でも理解するところだろう。

 

最後に、この作品が現在のアメリカ、ひいては世界において作られた意味を考えてみたい。

ご存知の通り、アメリカではトランプ政権が誕生し、日本を含む世界各国でも排外主義的な極右勢力が台頭しつつある。
僕は、インターネットが広まっていった頃、世界の様々な情報が瞬時に得られるようになれば、世の中はもっと寛容になって「差別」はなくなっていくと楽観的に考えていた。
しかし、蓋を開けてみればそれとは真逆の状況で、面白いと思う反面、日々危うさを感じている。
一番危うく感じるのは、本来は柔軟なはずの若い世代に差別主義がはびこっているように見えることだ。
原因は、将来への不安や閉塞感、一向に暖かくならない懐事情かもしれない。
差別を排する動きが、まるで金持ちの道楽のように、理想主義者のきれいごとのように映っているのではないだろうか。
その意味で、最早、従来の映画のように同情心を喚起したり想像力を補っても、現代の若者には響かなくなってしまったのかも知れない。
僕が、以前荻上直子作品に怒った時のように、被差別者を慰みものにした空虚なメッセージのように感じて鼻白んでいるのではないか。

だからこそ、今、本作が作られたことの意味は大きい。
「差別」は「良くないこと」だからダメなのではなく、「非効率的なこと」だからやめるべき、というのは現代社会に対する強いメッセージのように感じる。
是非とも、若い世代、特に小中学生くらいの子たちに観て欲しい。
道徳の授業で扱うのにも持ってこいではなかろうか。
それに、メッセージ性云々を抜きにしても、映画として非常に良く出来ているし、大人も子供も安心して楽しめる一本になっている。
ファレル・ウィリアムズの手掛けた音楽も最高である。
邦題がぼんやりなこともあってか、公開規模はあまり大きくないのがとても残念だ。