童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

音楽の光と影 ~ シング・ストリート 未来へのうた × AMY エイミー

一週間ほど前に、ずっと観たかった映画2本をはしごするために東京に行ってきた。

 

大学で映画館に頻繁に通うようになった頃、いわゆる名画座というものに出会い、かなりはまった。
名画座とは、既に公開が終了した作品を対象に2本あるいは3本立て、オールナイトなどで通常の映画館よりも低額で楽しめる映画館を指す。
都内には、現在でも池袋新文芸座早稲田松竹、神楽坂ギンレイホール、目黒シネマ、シネマヴェーラ渋谷など、多くの名画座が存在する。
特に早稲田松竹新文芸座にはお世話になったが、そうした映画館に通ううちに、自分でもテーマを決めて数本選ぶという妄想名画座興行をするようになっていた。
自分の中でしっくりくるナイスな組み合わせというのは、もちろんいくつかあるのだけれども、実は今回観た2本は、期せずして、ばっちりの組み合わせであった。
何となく早稲田松竹の2本立てを意識した形で、二つの作品に共通するテーマと描かれ方の相違に関する自分なりの考えをまとめておきたい。

 

 

タイトルからも分かるように、今回観た「シング・ストリート 未来へのうた」と「AMY エイミー」はいずれも音楽を題材にした作品になっている。
それぞれの作品の内容に踏み込む前に、僕なりの音楽に対する一つの見方を書き留めておきたい。

 

僕は、常々、音楽という表現の多様さに面白さを感じていた。
様々な楽曲があることはもちろん、様々な演奏のされ方があり、さらに様々な聴かれ方がある。
時折、音楽は誰が作っているのか、という疑問が沸く。
もちろん、それは第一義的には作曲者によって出来上がるわけだけれども、必ずしも作曲者の意図とリスナーの理解は一致しない。
ということは、ある意味で、音楽という表現に最終的に意味を与えるのはリスナーであると言うこともできるのではないか。

 

音楽は、いったい誰のものか。
僕自身は、音楽とは作曲者、演奏者、リスナーという三者で支えられた複合的な表現であろうと思っている。
状況によって、三者の関係は複雑に変わりうる。
例えば、作曲者と演奏者が一致している場合がシンガーソングライター。
クラシックの場合は、演奏者によって音楽そのものが左右されるところが極めて大きい。
プロデューサーの下で楽曲を受け取る立場であるアイドルの場合は、演奏者とリスナーが一致している例と捉えることもできるかもしれない。
君が代」のように、リスナーによって様々な意味づけがなされて、最早、音楽の枠を外れつつある楽曲もある。

 

音楽が、この三者が存在して初めて出来上がるのものであると考えて今回の2作品を眺めると、それぞれの立場の持つ業のようなものを、まさに対称的に描いていた。

 


「シング・ストリート 未来へのうた」予告編

 

「シング・ストリート」には、音楽の輝かしい一面が凝縮されていた。

 

特に、心が浮き立つような作曲の奇跡的な瞬間が収められているところは文句のつけようもなく素晴らしい。
主人公コナーが、友人であるエイモンと一緒にギターを片手に作曲をするシーン。
ギターで「こんな感じ?」とメロディを形にする、歌詞を載せる、そして楽器を足していく…
音が生まれて重なっていくことが、こんなにも高揚感をもたらすのか。
動機が、女の子にモテたいからだとか結局デュラン・デュランのパクリだとかそんなことはこの際問題ではない。
動機が不純でもオリジナリティに疑問符がついても、音楽が立ち上がった瞬間の、しかもそれを自分たちが作ったんだという興奮が、画面を飛び超えて作曲なんてしたこともない僕にも伝わってきた。

 

演奏者、リスナーとしての喜びも、もちろん描かている。
リスナーに関して挙げるなら、本作で最も印象的な役どころである主人公コナーの兄、ブレンダンだろう。
彼は、音楽好きな引きこもりとして主人公たちに助言を与える、ある意味でプロデューサー的な役割を担っている。
しかし、彼は実は、主人公以上に両親の不仲に傷つき、自身の才能や現状に不満を感じている、最も葛藤を抱えたキャラクターなのだ。
それが、弟たちのバンド活動の中で、彼の中にも変化が現れ始める。
これは、まさにリスナーの醍醐味と言える瞬間だと思う。
音楽が、その時の自分の状況や気持ちに寄り添って意味づけされて、世界の見え方が少しだけ変わったりする。
本作において、主人公コナーたちのバンドの活躍は、ある意味で一本道で単調である。
むしろ、それに巻き込まれて変化を見せるリスナー(ブレンダンやヒロインであるラフィーナ)の方にドラマがあるという風に観ることもできるかもしれない。

 

これら三者の喜びが端的に現れるシーンがある。
それが、オリジナル楽曲「Up」が描かれる場面だ。
いつものようにコナーとエイモンが作曲を始める。
するとゆっくりと流れるように視点が移動し、他の楽器が入って演奏になる。
そして極め付けは、その演奏(練習)にエイモンの母親が飲み物を持ってきて、彼女が楽しそうに踊るのだ。
まさに、作曲家、演奏者、リスナーと伝わって音楽が完成する瞬間である。
このシーンが観られただけでも、1800円の価値があったと感じた。

 

 


『AMY エイミー』予告編

 

こちらは、対して、音楽がもたらす悲劇的な部分を象徴したような作品だった。

 

恥ずかしながら、僕が、Amy Winehouseを知ったのは割と遅くて、彼女がグラミー賞を獲った「Rehab」だった。
「みんなリハビリに行けって言うけどアタシの答えはノー」という衝撃的な歌詞と、どこか懐かしいメロディ、圧倒的な声と歌唱力。
確かHMVの視聴コーナーか何かで聴いて一発で気に入り、即購入した記憶がある。
その後は、スキャンダルばかりが注目され、僕もちょっとだけそれを面白がっていた一人だった。
正直、彼女の訃報を聞いたとき、心底残念に思うと同時に、どこか「やっぱり」と思う気持ちもあった。
ただ、今回この作品を観て、あれだけ彼女の音楽を楽しんでおきながら、まったく彼女の苦しみを思いやれなかったことに恥じ入るばかりだった。

 

彼女は作曲家というか表現者として、とにかく正直な人物だった。
自分の身に起こったことや自分の気持ち以外は歌にできない。
完全な私小説である。
だから、彼女の歌には嘘がなく、説得力がある。
でも、それだけに曲を作れば作るほど、歌えば歌うほど、彼女は自分をさらけ出してふり絞らなければならない。
曲を作って時間が経つと心境だって変化する。
彼女は寡作な人であったから、その分古い曲の歌唱を求められることも多かった。
そのたびに彼女は苦しまなければならなかった。
そして、自分の楽曲が商業的に成功すればするほど、希望とは異なる形で消費されていく。
これは、作曲家、演奏者の抱える業そのものだと思う。

 

彼女は、救いようのないほどに人に恵まれない人物で、そのことが彼女の不幸の大部分を作っていた。
だけれども、皮肉なことに、その最低な人間たちがいなければ、あの名曲たちは生まれていなかった。
そしてもっと皮肉なことに、名曲を生んで世界的な注目を集めたことが、彼女にとどめをさす大きな原因の一つになってしまった。
言葉を変えれば、私を含めたライトなリスナーたちが、彼女の音楽を知ったことが、結果的に、彼女の死期を早めていた。
これ以上ないほどに不幸な関係だと思う。

 

この作品は、ほぼ時系列に沿って、彼女のプライベート映像をつないだもので、映画のつくりとしては極めてシンプルになっている。
それでも退屈しない理由は、やはり、聞けば10人が10人とも振り返る、有無を言わせぬ歌声と、とにかく純粋で魅力的な人間性にあると思う。
はっきり言って、「Rehab」を作らなくてよかったから、もっと生きていてほしかった。
でもそれはつまり、僕は彼女の音楽を知りたくはなかった、ということになってしまう。
なんという矛盾。
まさに音楽の「影」の部分を観た気持ちだった。

 

 

2作とも、映画としても素晴らしい出来ばえだった。
「音楽」をテーマにこの2本立ては結構良い取り合わせだと思う。
才能を見出す人間の視点ということで、「アマデウス」を加えてもいいかもしれない。
また、良い妄想名画座興行が浮かんだら書き留めておきたい。