「怪物」を観た。
是枝監督が坂元脚本で映画を撮るということで、両者のファンとしては絶対に見逃せないと思っていた1本だった。
鑑賞してみて、ちょっとしばらくは他のことが考えられなくなるくらいの衝撃があった。
次の日になっても、ふとした瞬間にどうしてもこの映画のことを考えてしまうくらい。
2日と空けずに、ある種の義務感を持って2回目の鑑賞に出かけてしまうくらい。
公開から既に2週間が経とうしていて、賛否両論、多くの方が感想を述べている中、どうしても自分も残しておきたくて筆を執っている。
忙しさを言い訳に2年以上もこのブログをほったらかしにしてきたにもかかわらず、その恥を押してなお書きたいと強く思ったのは、誰かに読んで欲しいというより、自分のためが大きい。
書いておかないと、ちょっと自分でも整理がつかないと思ったのだ。
そして、書くならこのブログしかないとも思ったのだ。
公開されて間もないし、ネタバレになるようなことはなかなか書きたくないと思うけれども、そうもいかないので、前半に映画的な評価について述べて、後半に核心部分の感想を置いておこうと思う。
自分のためと言いつつ公開しているので、もしネタバレを見たくない方は、前半のみに留めておいて欲しい。
というか、僕がわざわざここに感想を残していることそのものが、ある種のネタバレを孕んでいるのだけれど、そこは勘弁してもらいたい。
映画を観てまず誰もが賛同するであろう点は、脚本の緻密さだ。
本作は、予告編からも分かるように、とある町のとある小学校の教室で起こった出来事が作る波紋を描いた作品となっている。
ミスリードに次ぐミスリード、鮮やかな伏線回収、緊張と緩和のテンポ、情報過多と不足のバランス。
見事としか言いようがない隙のなさだった。
そして、構成の見事さたるや。
体面を気にする学校と、近視眼的になる保護者、閉鎖されて淀んだコミュニティー。
そういった引きの絵をまず見せておいて、段々とそこに写った人物にズームしてその繊細な心の動きや個人の尊厳にピントが合ってくる。
抜群に面白いと同時に、台詞に対する感度をマックスにしておく必要があったので、見終わった後の疲労感が凄かった。
坂元裕二という人の感受性の高さと、それを落とし込む表現の巧みさに、改めて驚かされた。
カンヌ国際映画祭脚本賞受賞も納得の出来栄えだった。
一方、脚本の完成度が高かったことで逆に、是枝作品の作風の一つであるドキュメンタリーのような手触り感は薄かったように思う。
実際、いつもの是枝作品のような、演者に脚本を渡さず口伝えで自由にさせる演出方法は取らなかったそうだ。
とは言え、教室のシーンの自然さは、流石というべきものがあった。
もちろん坂元脚本の良さもあるだろうが、とにかく主役を取り巻くクラスメイト達の立ち居振る舞いが自然そのもので、教室の解像度の高さに冷や汗が出るレベルだった。
あんな風に子供を撮れる監督は、是枝さんしかいないだろうと思わせる圧巻のシーンだった。
Twitterを見ていると、少なくない方々が、トラウマを刺激されて観ていられなかったという感想を述べていた。
かくいう僕も目を背けたくなる記憶が次々と呼び起こされて、精神的にかなりキツかった。
ただこれは裏を返せば、フラッシュバックするほどに「本物」だったということを意味している。
というわけで、映画としての完成度は極めて高いと思ったし、映画館で見ることの意味を強く感じた作品だった。
トラウマ云々については、むしろある程度それを狙っていた部分があると思っている。
後述するが、坂元さんと是枝さん双方がそうまでする程に、「いま」この作品を作らねばならない切迫感があったと思う。
トラウマと言って目を背けて良い問題ではない、という強いメッセージを感じるのだ。
その点も踏まえて、僕は敢えて強く、本作を薦めたいと思う。
本作を「いま」映画館で観ておくことには、大きな意味がある。
さて、この先は、ネタバレを入れた上で、とても個人的な感想を書き留めておく。
本編とは逆に、敢えてパーソナルな部分から始めて、受け取ったメッセージの社会的意義みたいなものにズームアウトしていく構成にしたいと思う。
まず、はっきりと指摘しておきたいのは、この物語の核心の一つに当たるある秘密は、僕の抱えているものとかなり近かった、ということである。
おそらく自分と同じく性的少数者の自覚がある人間は、かなり早い段階でその秘密に勘付いたと思う。
本作は3部構成で、視点を変えて時間軸が3回繰り返す仕掛けになっているが、その第一部。
シングルマザーである麦野早織がなかなか帰ってこない息子・湊を心配して探し出し、車に乗せて家に帰ろうとするシーン。
何か呟いた息子に彼女が声をかける。
お父さんに、約束したんだよね
湊が結婚して家族持つまでは、お母さん頑張るって
どこにでもある、ふっつーーの家族でいいの
家族っていう宝物ができるまでは…
ここで、湊は走行中の車から飛び出してしまう。
一見優しい言葉とそれに対する奇妙な反応を見て、「あ、これは僕の話だ」と思ったのだ。
親に感謝の気持ちがあればあるほど、その言葉に追い込まれてしまう。
だってその幸せには、多分もう届かないと気づいているから。
僕なんて、アラサーを超えてアラフォーに突入した今もなお、似た感情を燻らせている。
そこからのシーンはずっと、ほぼ自分の記憶にあるものの再現に近かった。
何気なくぶつけられた「それでも男かよ」の一言に、TVのオネエタレントを笑うことに、何となく合わせてしまった男子のノリに、フェイクで口走った好きな女子の名前に、ちょっとずつ傷ついていく。
オ●マと侮蔑されて必死に否定しながら罪悪感と居心地の悪さを感じた日や、好きなAV女優の話に全く入っていけなくて焦った日とか、本編にない余計な記憶まで呼び起こされてくる始末。
作中の湊と依里と同様、自分も何度ももっとマシなものに生まれ変わりたいと願ったものだった。
そのトラウマの果てに、本作は、見方によってはとても残酷な事実を突きつけて終わりを迎える。
ラストの解釈には色々と意見があると思うのだが、それは置いておいて、そこで交わされる台詞が重要だと思っている。
それこそが、この映画の最も言いたかったことだと思うからだ。
依里「生まれ変わったかな」
湊「そうゆうのないと思うよ」
依里「ないか」
湊「ないよ、元に戻るだけ」
依里「そっか…良かった」
これは、厳しいけれども真実だ。
泣いても笑っても、僕たちは怪物めいた自分と付き合って暮らしていかなければならない。
それでもなお「良かった」と言いたいとずっと願っている。
この願いは、本作の全てのキャラクターに共通するものだ。
息子を守るために必死な早織、児童と学校の間で翻弄される保利、組織を守るために人間性を手放した伏見。
個人の幸せを希求する権利が、集団になった時に理不尽に制限されていく様が何とも悲しい。
どうしてこうなってしまったのか、どうすれば良かったのか。
今もなお自問自答している。
翻ってこのメッセージの社会的な意味みたいなものを考えた時、まさに現在必要なことじゃないかと大いに首肯する程度には、僕の中にも危機感がある。
僕たちは、今、この日本に居て、もっと自分達の恥部に、醜悪な「怪物」に自覚的であるべきだと強く思う。
例え見たくないものでも、見なければいけない時があるのではないか。
見て見ぬふりをしてきたから、今こうなっているのではないのか。
この国には、本作の主題である性的少数者だけでなく、様々なマイノリティが存在する。
老人、子ども、障害者、沖縄、在日外国人、難民…
確かに存在しているはずなのに、その問題は無関係と見て見ぬ振りをして、多数決だから仕方ないと、それが民主主義なのだと勘違いをしていないか。
年金もオリンピックも統一教会も、政府は誰一人責任を取らず、国会では出来レースの不誠実なやり取りが、与党の嘲笑を合いの手に虚しく行われている。
国民は政治に対する期待も関心も失って、怒りの声を上げる人々に冷笑を送りながらサウナとキャンプに逃避し、異世界転生に夢を見ている。
映画のキャッチである「怪物、だーれだ」
「怪物」は間違いなく、画面の外にもたくさんいる。
映画の中で起きたことは、この国で日々起こっていることの相似に過ぎない。
一度我々は立ち止まって、よくよく自分達の振る舞いを反省すべきなのだと思う。
例え遅過ぎたとしても。