童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2023年10月7日

子どもの頃、大人から「大きくなったら気持ちが分かるよ」と言われることが嫌いだった。

ちょっと背伸びして純文学の小説とかを読んでいる時なんかによく言われた。
バカにすんなよと思っていたし、今でもあの時持った気持ちや印象は間違ってなかったと思っている。
と言うか、大人になって読んだとて、新しい視点がつけ加わることはあっても、基本的には同じ気持ちになる自信がある。
何も自分が人より読解力に優れていたと言いたいわけではない。
どんな子どもだって、その作品の描く情景と心情を心に再現することは大人と同じようにできるはずだと信じている。
良い作品には、それだけの力があるはずだ。

でも今、あの頃大人たちがそんな風に言っていた意味が、何となく分かるようになってきた気がしている。
成長を重ねて語彙が豊富になったり、経験によって色々な事象のカテゴリーが脳内に整備されたりすると、正しく気持ちを言語化できるようになる、と言うことだったのではあるまいか。
これは、誰かに話せるようになるという意味での言語化ではない。
自分の脳の中で言葉に変わること、それをすなわち「分かる」というのであれば、確かにあの言葉は正しかったのかも知れない。

しかし最近、この脳の中の言語化がかなり厄介なものではないかと思い始めている。
なまじ経験を積んでしまった分、何か新しいものがやってきてもそれに対する耐性ができてしまった。
あの時のこれに似ているから…とか、こういう時はこうなるはず…とか、勝手に無理やり分類してわかった気になっていないか。
分かったことばかりのように勘違いして、マンネリを感じていないか。
子どもの頃のように、気持ちを気持ちのまま心に残しておけなくなっている気がしてならない。
そもそも、そんな簡単に言語化できるようなものなら、わざわざ作者だって作品にしない。
その気持ちを呼び起こすための何百何千ページのはずなのだ。

大人になったら気持ちが分かる?
違う。
むしろ大人になると、気持ちが分からなくなってしまう。
今は、そんな気さえしている。