童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

善意の暴走 〜福田村事件〜

せっかく時間ができたので、書こうと思って溜めていたことを吐き出していくことにする。
手始めに、一ヶ月ほど前に観に行った「福田村事件」の感想を残しておく。


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福田村事件とは、関東大震災直後に現在の千葉県野田市のあたりで実際に起きたヘイトクライムである。
流言飛語によってコリアンに対する悪感情が高まる中、香川から薬の行商に訪れた一行が、その出自を疑われてリンチに遭う。
結果として、15名いた一行のうち妊婦や幼い子供を含む9名が惨殺されるという、悍ましい事件が起きてしまう。
本作は、事件現場となった福田村の様子を中心に、この惨劇へと至る過程を被害者と加害者両面にスポットを当てながら描いた作品となっている。

関東大震災後のコリアンに対するヘイトクライムの発生についてはもちろん知っていたが、福田村事件については恥ずかしながら知らなかった。
小池都知事に代表されるような、当時のヘイトクライムの事実を否定/矮小化しようとする昨今の動きを苦々しく思っていたこともあり、本作が方々で話題になっているのを見て、是非劇場で観たい、観ねばなるまいと思っていた。

 

この世で最も厄介なのは、悪意よりも善意だろうと思う。

もしかすると、最初のきっかけは悪意だったのかも知れない。
あいつが気に入らないからとか、自分を責められたくないからとか、これまで酷い扱いをしてきて仕返しをされるかも知れないとか。
そんな風にして作られたデマや流言が、家族を守り、秩序を守り、和を守ってきた善良な人々の善意によって増幅・拡散されていく。
大切な人や場所を守りたいと思うこと自体は、確かに悪いことではない。
むしろ立派で、尊ばれるべき姿勢だろう。
だからこそ歯止めが効かないし、省みられることがない。
安易な分断に流されて差別意識に囚われ、理性を失ってしまう。

福田村事件の被害者である薬売りたちは、本作の中で決して罪なき人々として描かれていない。
いわゆる部落出身で被差別者である彼らは、より弱い立場のハンセン病患者たちをカモにしたりして日銭を稼いでいる。
コリアンに対する差別意識を持つ者だって含まれている。
そうした差別の重層構造の中にあって、好むと好まざるとに関わらず、彼らはたくましく図太く生きてきた。
その構造そのものの理不尽さはあるものの、ある意味では、加害者である福田村の村人たちの方がよほど「善良」な人々だったと言えよう。
だからと言って、彼らにしろコリアンにしろ、治安維持の名目で惨殺されて良いわけがない。

本作で面白いのが、善意が吹き荒れる福田村において必死に抗おうとする人々が、ある種の不道徳を背負っている点である。
不倫や過去の加害経験、高等教育…
これらによってコミュニティから外された者たちだけが、暴走を始める善意を俯瞰で捉えて異を唱えることができていた。
しかし当然、彼らの論理は受け入れられない。
うねりを上げる狂気の濁流に押し流され、無力なまま目の前の惨劇に打ちのめされるほかない。

 

正直に言うと、台本に関してはあまり好みでなかった。
少し喋らせ過ぎていると言うか、作り手の主張があまりに言語化され過ぎて、せっかく映画なのだからもっと映像で勝負して欲しかったと思うシーンが散見された。
メッセージそのものは全くその通りだと思うのだけれど、もう少し観客の読解力を信用して委ねてくれても良かったように思う。

それでも、本作をこの令和の時代に劇場でしっかりと鑑賞したことに少しの後悔もない。
まさに今、この題材を扱いたくなる作り手の気持ちは、十分に理解できる。
差別的な言葉を公然と口に出す政治家が罷り通り、盛んに有事への恐怖心を煽って軍備拡張の必要性が主張されている。
その中にあって、まさに日本の恥部と言って差し支えないこの事件を見つめ直すことには、大きな意味がある。
この恐ろしい事件を起こした人々から地続きの場所に「善」なる我々も立っていることは、疑いようがない。
我々は、分断を煽って刺激する悪意に敏感でなくてはならない。
常に正義を疑い、善意の孕む狂気性に自覚的でなければらない。
その暴走を抑える仕組みを、常に考えなくてはならない。
本作には、その反省点が詰まっている。