童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2023年11月25日

今日、東京に行ったついでに、ずっと観られずにいた「月」を観てきた。


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映画は、元売れっ子作家の主人公洋子がとある障碍者施設で働き始めるところからはじまる。
耳触りの良いことを言って笑顔で迎える若い同僚の陽子、利用者のために自作の紙芝居の練習をしている同僚のサトくん。
森の中の社会と隔絶されたような場所にある施設の中で、綺麗事ではない現実を目の当たりにして、命の価値や人間の定義が揺さぶられ始める。
そんな中、サトくんは悍ましい結論に到達し、実行に移してしまう。
相模原で実際に起きた殺人事件を題材に、生命の選別について問う作品となっている。

ある程度覚悟して観に行ったつもりだったが、それでも結構キツかった。
と言うか、少し危険ではないか、とすら思った。

描きたいことは分かる。
あの事件と、主人公が抱えるパーソナルな悩みが切っても切り離せない問題であることも、十分理解できる。
障碍者施設の現実も、センセーショナルに提示されていてもそう言うこともあるだろうなと想像できる範囲で、苦しく情けない嫌な気持ちにはなっても驚きはなかった。
本当は、僕は、サトくんの達した結論に対する強烈なカウンターが見たかった。
だが、それはなかった。
そんな反論が存在するならとっくに問題は解決しているので、ある意味、当たり前なのだけれど。

前々からこのブログにも書いている通り、生きている限り、僕らは自分達の中の優生思想と闘い続けなければならない。
この映画も、まさにそのことを言っている作品なのだと理解できる。
サトくんとの対話は、すなわち自分との対話であり、自己批判である。
しかし、優生思想は絶対に認められないと思っていても、本作の主人公含め、彼の主張を真っ向から否定できずに、むしろ足元が崩される中で何とか立っている状態にさせられる。
本当は、安易な答えが欲しい。
でも、それを絶対に彼は許してくれない。
彼の主張に同調する方が楽なのではないかとさえ、思えてきてしまう。
その意味で、本作の描き方はとても危険に思える。
優生思想に対する嫌悪感をどこか他所でちゃんと身につけてから臨まないと、逆にそちらへ流れてしまう危険性すら孕んでいるのではないかと思ってしまった。

答えのヒントはきっと、作中何度も描写されるきーちゃんにある。
主人公は、自分と全く同じ日に産まれたきーちゃんに自分を重ねて、想像の中できーちゃんになるシーンが度々挿入される。
おそらく、優生思想への反論の糸口は、ここにある。
生命の選別が許される世界で、果たして自分は選別される側なのか。
「僕ら」と「彼ら」は、どこが違うのか。
そもそも、「僕ら」とは何なのか。
その基準は、一体誰が決めるのか。

作中、生きている「意味」とか「価値」とか「必要性」とかという言葉が何度か使われる。
そう言う類のものは、おそらく相対的にしか存在しない。
生きることの評価に、絶対なんてあり得ないと思っている。
ノーベル賞を受賞する素晴らしい研究者で、その成果によって世界中の人々の健康が守られたとしても、その生命の価値は、僕と同じくらいあるし、同じくらいない。
価値を感じてくれる人の多寡が違うだけで、それだって時間や環境によって変化するような頼りないものに過ぎない。
少なくとも、他者のそれを勝手に決めて排除するような真似は許されないだろう。
と言うのが、今のところの僕の答えらしきものになっている。

しかし、仮にそうだとして、そもそもどうして、意味がないのに我々は生き続けないといけないのか。
僕の中の対話は未だ決着が付かない。
残念ながら、本作は答えを与えてくれなかった。