童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2024年6月24日

今日も仕事場で、同僚が連れてきた子猫が走り回っていた。
かと思うとスヤスヤと寝ていたりもして、目の当たりにした人間たちは皆、口を揃えて「猫になりたい」と呟いている。

子猫に限らず幼い子どもを見ていると、欲求の表出がとても直接的で素晴らしいなと思う。
あれやりたいこれやりたい、その主張は止まらない。
しかも面白いのは、時にその欲求が矛盾してぶつかることがある。
眠いけどまだ寝たくない、お腹空いているけど遊びたい、好かれたいけど意地悪したい…
矛盾で身動き取れなくなってむずかっている子どもたちを見ると、とても「生」を感じる。
生きるとはすなわち、欲することなのだろう。

自分の欲求に素直でいられるのは、子どもの特権だ。
程度の差はあれ、人間は大人になるとそのままではいられなくなる。
自分の中での欲求の矛盾だけでなく、他者の欲求とも調整しなければいけない。
成長とともに、段々と最適化されていく。
けれども、最適化され過ぎるとある日分からなくなる。
自分は一体、何を欲していたのか?
捕まえては見たものの、手の中のこれはそんなに欲しいものだったか?
自分に手が届きそうだったものを手に入れて、満足するように暗示をかけているだけじゃないのか?
そもそも何が欲しくて、生きていたんだっけ?

多くの作品が繰り返し描いてきたテーマだけれども、きっとこれは社会を構成して生きていく動物である人間にとって、宿命に近い根源的問題なのだろう。
我々のアイデンティティは内なる欲求によって支えられているものだけれど、自由な欲求の達成は公共の福祉と両立し得ない。
自由に欲求を主張できる子ども時代は誰にとっても必要かつ貴重で、その欲求こそずっと大切に持ち続けるべきものだろう。
例え欲求は果たされなくても、我々を我々たらしめているものは、多分そこにある。

子猫にしろ子どもにしろ、自らに正直に欲求を告げる姿を見ると、とても安心する。
落語の「初天神」よろしく、デパートであれ欲しいこれ欲しいと駄々をこねている子ども、大いに結構。
それこそ、子どものあるべき姿。
その気持ちを心のどこかに持っていられれば、例え叶えられなくても、きっとその人らしく生きていけるはず。
自分の欲求が何だったのかいまいち思い出せない大人の一人として、一人でも多くの子ども達に我儘をさせてあげたいと思っている。