童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2024年2月12日

昨日の夜、友人の飲み会の誘いを断って何をしていたかと言えば、いつものように映画を観に行っていた。
ミツバチのささやき」で有名なビクトル・エリセの何と31年ぶりの最新作。
少し前に「ミツバチのささやき」は観てあって、噂に違わぬ名監督だと感じていたので、楽しみにしていたのだ。


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まごうことなき名作である。
とにかく物語が上手い。
22年前、映画撮影中に失踪した俳優フリオ。
その痕跡を、かつての監督である主人公ミゲルが追っていく。
その追跡を縦糸にして、それぞれが示唆に富んだ様々な要素が複雑にばら撒かれていく。
それらが伏線となって、後半一気に収束していく様は、見事としか言いようがない。
少女の写真、キングの駒、タンゴ、裸足、もやい結び、器用な手先、本名とあだ名の会話…
一見雑多な無関係のエピソードが、ジグソーパズルのように美しくハマっていく。
しかも、記憶が少しずつ失われていく養老院という場所を舞台として。

人物描写も、台詞説明に頼らずちょっとしたシーンで印象付けていく。
例えば、ネクタイを結ぶシーン。
ミゲルがネクタイを結ぼうとして少し苦戦する。
これ一つで、ここ最近、正装していなかったことが窺えるし、つまりあまり堅い仕事には就いていないだろうことまで想像できる。
また、この結び方をわざわざ見せることで、後半のもやい結びが余計に映えるという仕掛け。
とんでもなく緻密な計算によって作られた作品だと思う。

物語の中身そのものも、非常に刺激的で引き込まれるものだった。
3時間近くある長い作品ではあるが、基本は、旧友の痕跡を辿るサスペンスもの。
途中で飽きることは全くなかった。
本来の名前と呼ばれる名前。
一体どちらが本物なのか。
どちらをより生きたいか。
数々の名前を与えられてきた俳優という仕事をうまく活かして、根源的な問いが提示されている。
"自分"とは、与えられた名前の通り、どこに行っても変わらないものか。
それとも、他者の瞳を通してつけられたニックネームのように、時と環境に合わせてどんどん変わっていくものなのか。
ちょうどそれに近いことを考えていたせいか、余計に響くものがあった。

2024年2月11日

昨日は昔からの友人とスキーに出かけてきた。
前日に落ち合ってホテルに一泊、昨日は朝イチでゲレンデに入って昼過ぎまで楽しみ、早めに上がって温泉に浸かってから引き上げてきた。
職場の先輩グループも同じスキー場に来ていたため合流して、全体としてとても満足感のあるスキーだったと思う。

その友人と出会ったのは、小学生の頃まで遡る。
当時は別にクラスメイトでもなかったはずで、お互いにほとんど話したこともなかった。
少し変わった苗字を持つ彼は、それを揶揄われたことが原因だったのか、一時期登校できなくなっていた…と言う朧げな記憶がある。
随分と繊細な子なのだろうと言うのが、僕の第一印象だった。
仲良くなったのは中学生の頃で、同じクラスだったことがきっかけで、良く話すようになった。
異性の友達が多かった僕にとって、初めてに近い同性の友達だったかも知れない。
何だかんだで3年間連んで、卒業してからもちょくちょく映画を観に行ったり遊んでいた。
今も定期的に呑みに行くし、旅行にも何度か行ったし、結婚式にも呼ばれた。
スキーにハマったことを話したら、ちょうどスノボを始めたと言うことで、ここ数年は1シーズンに1回くらいは一緒に出かけている。

最初の印象と言うのは案外当たっているもので、彼はかなり繊細な性質の人間だと思う。
少なくとも、自分なんかよりもずっと。
大学を卒業して割と大手の会社に就職した彼だったが、人間関係の問題で度々愚痴をこぼすようになり、その後転職をした。
転職先でもあまり仕事に馴染めず、程なくてして再転職を決意。
去年から新しい会社で働き始めている。
が、その仕事もなかなかハードなようで、今回の旅でも弱音を口にしていた。
前職は仕事がつまらなくて辞めたようだったが、今回は力量よりも高いレベルを要求されているようで気が引けるらしい。

彼は、年齢を聞かれたくない、としきりに言っていた。
「その歳でこの位のことしかできないのか…?」と幻滅されるのが怖いと言う。
確かに、彼は、年齢よりもかなり若く見える。
いや、幼く見えると言った方が正確かも知れない。
元同級生ということで僕と同年齢の良い歳したおっさんのはずなのだが、時折、大学生くらいに見えることがある。
始めたばかりの仕事でうまくできないのは当然だし、それで困るようなら会社の教育に問題があるだろうと思うのだが、すっかり自信を失っていて辛そうだった。

そんな彼を慰めたり励ましたりしていたわけだが、その一方で、彼が人間関係の問題を抱えがちな理由が少し分かったような気がしてしまった。
たまに会うくらいの友達だったらまだしも、しょっちゅう会う仕事場の同僚が、ずっと気落ちしておどおどビクビク、腫れ物のような存在だったとすると、確かにやりにくいかも知れない。
だからと言ってパワハラまがいの対応をして良いとは思わないし、それでもうまく仕事場を回すのが上司(マネージャー)の仕事だろうとも思う。
けれど、彼の性質が、その手の問題を引きつけやすいことは想像に難くなかった。
実を言うと、本当は今日も彼に飲み会(共通の友人と飲むらしい)に誘われていたのだが、断っている自分がいた。
スキーの次の日で疲れていたと言うのもあるのだが、今日も行くとなると今回のスキーの前泊の分も入れて3日連続で彼に会うことになる。
また彼の話を聞くのか…と辟易してしまったことは否めない。
中学生の頃は毎日のように一緒に帰宅していたと言うのに、自分の薄情さに驚いている。

彼はまた、転職をするのかも知れない。
今度こそ彼に合った仕事が見つかると良い、と思っているのは本当だ。
お互いに晴れやかな気持ちでゲレンデに立てる日を、心から願っている。

2024年2月7日

仕事場で風邪が流行っている。
咳き込んでいる人、鼻を啜っている人、喉を気にしている人。
みんな辛そうにしているし、治り始めても無理をして長引いている人が多いように思う。
忙しさで言うと負けてはいないと思うのだけれど、幸いなことに自分は今のところ体調を崩していない。
学校で特に流行っていると聞くので、皆さんご家族からもらっているのかも知れない。
こう言う時に、独身は強い。

小さい頃、僕はよく熱を出す子どもだったらしい。
特によく覚えているのが、僕の両親の結婚式。
今の母は、僕が5歳の時に父と結婚したので、僕はその式に参列するはずだった。
が、風邪を引いてどうしても出られず。
いまだに、そんな面白いイベントに出られなかったなんて、と後悔している。
それが、中学生くらいからだろうか、ほとんど風邪を引かなくなった。
風邪どころか、他の病気もほとんどない。
寝込むまでいった体調不良は、おそらく10回もないはず。
記憶にある限りでも、大学受験直前の風邪、大学生の時の麻疹、大学院生の時のインフルエンザ、ポスドク時代のノロウィルス、去年の新型コロナウィルス。
このくらいだと思う。
栄養が良いからなのか、元々体が強いのか、あるいはその両方なのか、とにかく病院の世話になる回数が極端に少ない性質の人間だろうと思っている。
「かかりつけ医」という言葉がピンとこないレベルには、病院と縁がない。

こう言う話をすると、良く人から羨ましがられる。
だからと言って偉いわけではないと思うけれど、確かにラッキーかも知れないと最近は良く思う。
同僚には、アレルギーや喘息その他で頻繁に病院に通っている人もいるし、生活習慣病で医師から注意を受けている人もいる。
その分の時間も金もストレスが、自分にはかかっていない。
トータルで考えると、健康であることはかなり大きな節約になっていると言える。
このまま健康を維持できるように、なるべく努力したいと思っている。

2024年2月6日

なんちゃってで日記をつけるようになって、困っていることが一つある。
身の回りで起きたことや鑑賞物なんかを素材にして日記を書いているわけだけれど、そうするとあまりにもリアルの生活に密着し過ぎて、うっかりするとすぐ特定されてしまう。
匿名であることを担保に、なるべく嘘を吐かないで思ったことを書いていこうと思って始めたこのブログ。
身バレはその前提を崩すもので、あってはならないことだと思っている。
既にかなり赤裸々に書いてきたこともあって、職場や親族の誰かに読まれて特定でもされようものなら、恥ずかし過ぎて失踪しかねない。

特定を防ごうと思うと、住んでいる地域に根ざしたことや普段のSNSで呟いたこと、職場で見聞きしたことをそのまま書くわけにはいかなくなる。
ぼかして書けば良いのかもしれないが、どこまでぼかせば十分なのか、いまいち分からない。
嘘をついてしまえが楽だけど、そうなってしまったら本末転倒である。
その日あったことを新鮮に書こうと思うと具体的に書けず、余計な気を遣ってしまってなかなか筆が進まない。
仕方のないこととは言え、多少ジレンマを感じている。

どうしてこんなに、バレたくないのだろう。
例えば、僕には同性愛者的な側面が多分にあるけれど、その部分が嫌なのか?
正直、友人は薄々勘づいているだろうし、職場の人も何となくそう思っている気がする。
ので、彼らに知られるのはそんなに嫌ではない。
けれど、両親に知られるのだけは心の底から嫌だ。
父親が同性愛者を気持ち悪く思っていることは知っているし、口に出さなくてもどこかで孫を求めているだろうことは分かるので、その可能性を潰すようなことは言いたくない。

欺瞞だと言われたらそうかも知れない。
あるいは、同性愛は罪であるという僕自身の中の差別主義の表れなのかも知れない。
でも、多分この世の被差別者のほとんどはそうなんじゃないか、とも思う。
多くの被差別者は、心の中に差別主義者を飼っていて、その仮想敵にずっと苦しめられている。
気持ち悪い、不毛、恥ずかしい、哀れ…
僕の中の差別主義者が、僕自身に向かって詰ったり嘲ったり蔑んだりしてくる。
リアルの差別主義者が罪深いのは、心の中の声が実体を伴って現れることで拡声されてしまうこと。
少し前に某自民党議員が「生産性がない」という言葉を使って大炎上したけれど、あの言葉は、まさに僕が僕自身に放っていた言葉の一つだった。
そんな風に思うことは間違っているのは分かっていても、なかなか止めることができない。

身バレ問題はなかなか根が深く、容易には解決されそうもない。
しばらくは、気を遣いつつ日記らしきものを書き続けるしかない。
そもそも今までだって、そんなにきちんと対策できていたかどうか怪しい。
もし気づいてしまった方がいたとても、どうかリアルの僕には教えてくれないで欲しい。

2024年2月5日

ようやく忙しい期間を抜けつつあり、時間に余裕が出てきた。
昨夜は「哀れなるものたち」を観てきた。


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予告の時から気にはなっていたものの、観に行こうとはそれほど思っていなかった。
が、アカデミー賞のこともあってかなり話題になっているし、一応観ておこうかという気持ちになったのであった。

天才外科医によって胎児の脳を移植された美しい女性ベラ。
段々と成長する彼女の目を通して、人間の欲望と業、世界の不条理が描かれていく。
ベラを含めて、登場するキャラクターたちは、みんなまともではない。
しかし、彼らの方がむしろ真っ当ではないかと思わせるような鋭い考察が混じっている。

例えば、ベラが初めて世界の残酷な仕組みを目の当たりにするシーン。
彼女はその有り様にショックを受けて、パートナーがギャンブルで大勝ちしたお金を全て投げ捨ててしまう。
そんなことには何の意味もなく、しかも彼女自身のお金ですらないのだけれど、そこには我々の欺瞞が映されている。
我々は、世界のどこかの不条理に気づいていながら、それを知らぬ振りしながらのうのうと毎日を送っている。
知っていながら何もせずなかったことにしている人々と、絶望して何でも良いから何かをした彼女と、一体どちらがまともだろうか?

ことほどさように、本作は世界や我々の抱える病に対して、何らかの問いかけをし続ける。
人間の生来の残虐性、性愛と愛情のもつれ、職業や性の差別、社会を改善する方法。
一つ一つが1本分の映画になりそうな大きいテーマを、ベラの視点で次々と見せられて、博覧会のような作品であった。
繰り返し映される"Poor things"
当然我々も含まれるし、社会も世界も、みんな哀れな存在である。
独特の美術と世界観で味付けは濃いめであったが、それだけに"哀れさ"の根源たる諸問題が生々しく映って、制作者の意図や切迫感が感じられた。

とは言え、正直、あまり好きな映画ではなかった。
フランケンシュタイン博士を彷彿とさせるマッドサイエンティストな外科医が登場することからも分かる通り、人体や動物改造の描写が割と多く、性描写も生々しい。
それ自体に物語上の意味もあって理解はできるけれども、好きで何度も観たいかと言われれば、そんなことはないかなと…
ただ、抜群に面白くはあった。
2時間20分と長めの作品ではあるけれども一度も飽きることはなかった。
良くも悪くも先の展開が読めず、終始ドキドキしていたと思う。
お金を出して観る価値のある作品であったことは間違いない。

2024年2月1日

「作りたい女と食べたい女」を観ている。

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漫画原作のドラマで、2022年に放送したシリーズの続編が現在放送されている。
料理好きな主人公・野本が、せっかく作っても少食で消費が追いつかないことを嘆くところからスタートする。
ひょんなことから同じマンションに住む春日に出会い、食べるのが大好きな彼女に料理を振る舞うようになっていく。

ここで美味しいご飯を一緒に作りながら日常が進んでいけば、まあ普通のドラマかなと思うところだが、本作はさらに二人の関係に踏み込んでいく。
一体彼女たちのこの関係は、何なのか。
確かに居心地が良くて互いを好ましく思っていることに間違いはないが、果たして恋なのか。
一体、どう分類すれば良いのか。
同性愛という言葉を敢えて出しながら、名前のない感情・名前のない関係に迫ろうとしている。

似た題材を持った作品と言えば、テレ東で放送されていた「きのう何食べた?」だろう。
こちらは中年のゲイカップルを主人公に据えて、料理を主軸としたそれぞれの日常を切り取った作品だった。
ただ、こちらの主役二人の関係ははっきりしている。
どちらも同性愛者であることに自覚的だし、互いの関係もしっかりと認識できている。
その意味で「作りたい女と食べたい女」とは、ちょうど対になっていると言えるだろう。

性欲が介在した好意は、関係を単純化して分かりやすくしてくれる。
はっきり「好き」と分かるし、ゴールも明瞭である。
しかし、世の中には色々な「好き」が存在する。
お互いの存在が救いになったり、安心できたり、心強く思ったり。
手を繋ぎたいとかキスしたいとか思わなくても、そういう相手が現れることもある。
未定義の感情が去来した時の戸惑いが、本作では非常に丁寧に描かれている。

僕自身も、人のことを性的に好きになるということがないので、ある意味本作の主人公にかなり近い存在と言える。
確かに10代や20代くらいの頃は、他人のように恋人関係を持てない(持とうと思えない)ことにコンプレックスを感じたこともあった。
現在は大分その気持ちも形を潜めて、名前がないままに自分のあり様を受け入れつつある。
このドラマは、ちょうど少し前の自分を観ているような感じがして、少しだけ懐かしい気持ちで視聴している。
戸惑いつつも仲を深める二人が、この先もどんな未来を描くのか。
少し年老いた当事者の一人として、楽しみに見届けようと考えている。

2024年1月31日

少し前に、学会で昔の知り合いにあった時に、開口一番「老けた?」と聞かれた。
まあ、それなりに年は重ねているし、そろそろ40も見えてきたので仕方ないのだけれど、お前だって同じくらいの歳だろうと少しムッとしてしまった。
そして、さらに追い打ちをかけるように「結婚しないの?」と聞いてきた。
その知り合いは、5年くらい前に職場の人と結婚して、そこそこ幸せに暮らしているらしい。
馴染みがあるとは言え何て不躾なやつだろうと思いながら、適当に相槌を打っていた。

この知り合いはかなり失礼な部類に入るけれど、程度の差こそあれ、この手の疑問をぶつけられることは少なくない。
その度に何だかモヤモヤしながら、適当にその場の気分で答えている。
が、このモヤモヤの正体はいったい何なのだろう。
別に結婚を羨んでいるわけではない…と思う。
だって結婚したい人もいないし、誰かと暮らしたいとも思っていない。
仕事はそこそこやりがいがあるし、適度に役に立っているという手応えも感じられる。
プライベートだって映画だのライブだのスキーだの、それなりに忙しく遊んでいる。
誰かを羨み妬むほど、現状に不満があるわけではない。
それならどうして、いちいち彼らの言葉に逆撫でられている気がするのか。

「未婚であることは不幸である」という、ある種の偏見が見え隠れするところに問題の本質がある気がする。
つまり「結婚しないの?」という問いには、「それなりの年齢になったら結婚して家庭を持つべき」という思想が背景に隠れている。
あるいは、「未婚のまま年老いていくのは不自然であるし、不幸で惨めなことである」という認識である。
要するに、可哀想に思われているわけだ。
僕はちっとも不幸じゃないのに、勝手に不幸だと誤解されている。
そのことが何とも腹立たしい。

結婚は全然したくないけれど、離婚をしたい。
離婚していれば勝手に相手が気を遣ってくれる。

こんなことを良く考えていた時期もあった。
割と感覚が近い友人は賛同してくれていた。
というか、結婚だって離婚だって、本来同じくらい気を遣うべき私的な話題である。
人と話をする上で完全なストレスフリーはありえないけれど、こと結婚云々に関わる話題については、早く価値観がアップデートされて欲しいと願っている。