童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

公衆浴場問題

また仕事が忙し過ぎて更新が滞っている。
自分の仕事は、研究者とは言え、季節労働者みたいなところがある。
集中して仕事をしなければいけない期間とそうでない期間があって、現在はその忙しい期間の合間に当たる。
これが過ぎると、おそらく年末まで走り抜けなければいけないため、ちょっと書きたくなってきていたことをこのタイミングで消化しておきたい。


以前からこのブログでは書いている通り、僕は自分の性的指向について、まだ良く分かっていない。

tamago-polo.hatenablog.com
が、確かなこととして、僕は、男性の体にも女性の体にも性的な魅力を感じる人間だ。
何なら男性の比率の方が高いので、かなりホモセクシャルに近いと思う。

この前提に立った時に、いつも困ると言うか悩ましいと思っていることがある。
それが、タイトルの「公衆浴場」にまつわる問題である。
現在、築ウン十年という年代物の官舎に住んでおり、水回りが絶望的に使いづらいこともあって月に何度か銭湯に行く。
そもそも大きなお風呂に浸かるのが好きだし、サウナも好きということで、特に現在のような忙しくて精神的にキツイ時ほどその頻度が増える。
当然、男湯に入るわけだが、いつもその時に思ってしまう。

僕は果たして、男湯に入って良いのだろうか。

 

そもそも、どうして公衆浴場は男湯と女湯とに分かれているのか。

答えは簡単。
お互いがお互いを性的な対象として見てしまうから。
余程の子供でなければ答えられるだろう。
では、ホモセクシャルの人はどちらに入るべきなのだろうか。
バイセクシャルの人は、本来、公衆浴場に入ってはならないのだろうか。

 

銭湯に行くたびに、いつもこの疑問が頭に浮かぶ。

実際、他人の体を見て下腹部が興奮してくるとか、ましてや積極的に観に行こうとしているなんてことは誓ってない。
だけれども、確かに同性の体を好む性質が自分の中にあることが分かっているのに、それを隠して脱衣場で無防備な姿を目にしてしまうことに、何か罪悪感めいたものを持ってしまうのだ。
だって、それをヘテロセクシャルに置き換えて考えてみれば、公然と覗きが行われているに等しい。
だからと言って、女湯に入るわけにはもっといかない。
銭湯に行くのを止める以外に、良い解決方法がない。

結局、悩んだ末に自分がどうしているかと言えば、「眼鏡を外す」ということで折り合いを付けている。
いや、誤魔化していると言った方が良いかも知れない。
僕はド近眼なので、眼鏡を外すと、数10cmまで近づかなければほぼ人らしきもの程度にしか分からなくなる。
つまり、自らモザイクをかけて筋を通した気になっているわけだ。
基本、近眼で良かったと思ったことはないのだが、この点に関しては役に立っているなと思っている。

 

この問題は、結構、普遍的なものを含んでいる気がしている。

例えば、ドラマや漫画で良くある描写として、ゲイだと分かっているキャラクターに対して友人や知り合いが「俺のこと好きにならないで」とか「狙ってた?」とか冗談めかして言う、というのがある。
ここ最近の作品では、質の悪い冗談として無神経さの象徴のように扱われている気がする。
もちろん自分も、ある種のセクハラだろうと感じる。
しかし、この悪い冗談の背景には、「希望しない他者から性的対象として見られたくない」という割と自然で真っ当な心理がないだろうか。
誰だって、好きでもない人から体をじろじろ見られるのは嫌だし、後でオカズにされていたらもっと嫌だ。
上記の台詞が、冗談でなく本気であるならば、実はもっともな意見だということにならないか。

ゲイだと告白している人が居て、その友人や知り合いが「もう君とは二度と一緒に銭湯には行かない」と宣言したとする。
これは、果たして差別になるだろうか。
僕が言われる立場だったとしたら、ショックだろうが、理不尽とは思わないだろう。
そう考えてみると、カミングアウトの抱えるリスクは、想像以上に大きそうだ。

 

そんなことを考えながらも、眼鏡を外してそれなりに銭湯を楽しんでいる。
ただ最近、実はモザイクの中で肌色のものが蠢いている方が余程いやらしいのではないか、という気もしてきている。
印象派絵画の裸婦絵みたいな感じに見えるわけだが、それがむしろエロイ、みたいな。
そうなってくると、さらに制約をかける必要があるのかも知れない。
露天の岩場が見えず足をしたたかに打って怪我をしたこともあり、既にそれなりにデメリットを被っているので、この辺りで何とかご勘弁願いたい。