童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2024年2月23日

昨夜は深夜まで仕事、今朝早朝に出発してまた日帰りスキーに行ってきた。
とにかく今年は雪が少ない。
まだ2月だというのに既に春スキーの様相で、今年のシーズンはおそらく4月まで保たないだろう。
行ける時に行っておかないと、とちょっと無理をしてしまった。

ただ、確かに起きるのは辛いのだけれども、今回のように一人で行くスキーはペース配分も帰るタイミングも自由に選べるので割と良い。
正直、一人で行くと小さいスキー場なら2-3時間も滑ればもう満足で、あとは美味しいもの食べて温泉入って帰ろうという気持ちになる。
朝イチのベストコンディションを滑って、スキー場が混んできたらもう撤収。
時間をずらせるので店も温泉も選び放題。
夕方には帰って来れるので、道中の運転も比較的安全だと思う。

さて、運転というと、たいていBGMをかけているのだが、最近OTYKENを良く聴いている。


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YouTubeが突然オススメしてきたのがきっかけだった。
シベリアの先住少数民族で構成されたグループで、絶滅が危惧されている民族伝承や音楽を集めるプロジェクトの一環で立ち上がったのだとか。
全く知らなかったのだが、2015年結成で既に世界中にファンを持っていて、去年ロシアのウクライナ侵攻の問題がなければ、米国グラミー賞の舞台に招待されていたらしい。
高さの異なる二つの音を同時に出すホーミーや、独特の音と余韻を残すマウスハープ。
モンゴルやアイヌなどの文化とも通じるような民族的音楽素材を巧みに組み合わせて、現代的でクールなダンスミュージックに仕上げている。
MVの衣装もアイヌとの関わりを示唆するような意匠になっていて、エキゾチックでありつつ馴染みがあるという不思議な印象を残している。

どの曲もよいのだが上記に貼ったStormがお気に入りで、雪山に向かう時にピッタリ。
東に向かう友人に嵐になるから気をつけろと叫ぶ歌声が、雪を求めて疾走する車内に響き渡る。
これ以上ないほど気分を盛り上げてくれる。
そもそも、楽曲として非常に良く出来ているし、問答無用に体を揺らすリズムを持っている。
原始音楽はもしかするとこう言ったものだったのかも知れないと思わせるように、本能の部分に訴えてくる良さがあると思う。
国を問わず万人の心をとらえるキャッチーさは、そういうところに理由があるのかも知れない。
叶うなら、ライブイベントに参加して思いっきり踊り狂いたいが、現在の状況からするとまだ難しいかも知れない。
彼らとしては、住んでいたところが知らぬ内にロシア領として登録されていた位の感覚だろうに、本当につまらないことだと思う。
この一点だけでも、早く戦争には終わってもらいたい。

2024年2月21日

日記を書こうとPCに向かった瞬間に、早朝に頼まれていた仕事の結果を送りそびれていたことを唐突に思い出した。
本当は、昼前には作業し終えていたのだけれど、わざと寝かせていたファイルだ。

最近、本当は終わっているけれども送らない、と言う技を多用している。
理由は単純で、すぐ送ってしまうと次の仕事が来るだけだからだ。
そもそも他にも仕事があって忙しいと言うことは事実だし、そのことを相手にも分かって欲しい。
こうでもしないと、無限に仕事は増えているばかりで、緊急事態に対応できる時間を作れなくなる。
仕事は、それをこなす人間のところに集中する性質がある。
洒落にならない締切と、実は余裕のある締切を見極めて、少し遅れ気味に出す。
ずるいようだが、これがタスク管理の基本だと思う。
外部とのやりとりでそれをやったら信用を損なうけれども、組織の中での調査やら報告やらで律儀に締切を守る必要はない。
例え終わっていても、締切を過ぎて催促が来てから提出するようにしている。

学位をとってすぐ、ポスドクの頃はその辺りの匙加減が良く分かっていなかった。
直接研究とは関わらないような良く分からないタスクが積み上げられて、やらなければいけないんだと思い込んで真面目にこなしてしまっていた。
実験しながらヒイコラ作業していると、職場の大先輩に「そう言うのはやるから増えるんだ」と諭された。
真理を教えてもらって以来、締切を律儀に守ることを止めるようになった。
重大かそうでないかの嗅ぎ分けだけを丁寧に。
数年もしてくると、その辺りも大体分かってくる。
適度にズボラにならないと、辛い思いをするだけだ。

段々と後輩も増えてきているが、やはりその辺の匙加減がうまくいかないのか、タスクが詰まって辛そうにしている姿を良く見かける。
気が付いた時にはアドバイスしているが、タスクに優先順位をつけるのも大事な能力なので、言い過ぎないようにするのが難しい。
今日も一人体調を崩して休んでいたが、タスク管理に失敗していたのかも知れない。
と言うあたりで大体日記も書き終わったので、そろそろ今朝の頼まれ仕事を提出しようかと思う。
それにしても、急ぎの案件を当然のように早朝に頼むのは止めてもらいたい。

2024年2月20日

疲れが溜まっているせいなのか、春が近づいて気温が高くなってきたせいなのか、朝起きるのがとても億劫だ。
何となく習慣で、毎朝7時過ぎくらいに一度目が覚めるのだが、その後の二度寝が止まらなくなる。
眠くもあるし、気だるくもあるし。
何となく目が痒いような気もするので、もしかすると花粉症になりかかっているのかも知れない。

ただ、打ち合わせだったり出張だったり、時間の決まった仕事で寝過ごすということはほぼない。
割と小心者なので、仕事だと思うと緊張するのだろう。
大遅刻をかます悪夢も度々見るし、とんだチキンハートだと思う。
反対に、遊びの約束にはしょっちゅう遅刻している。
まして、一人でスキー場に行く時の出発時刻なんかはほぼほぼ守れない。
要するに甘えているわけだ。

そう言えば以前、中学生の頃の友達と飲み屋で待ち合わせをしていた時、5分遅刻したことをとても怒られたことがあった。
その時僕は、待ち合わせに余裕で間に合うくらいの時間に家を出たことで調子に乗り、飲み屋の近くの服屋で時間を潰していた。
何も買うつもりはなかったのだが、思いのほか気に入ったものを発見して会計などを済ませている間に、約束の時間になってしまったのだ。
が、まあ5分くらいだし席だけの予約だったはずだし構わないだろう…とちょっと遅刻する旨を連絡して、商品の袋をぶら下げてホクホクと飲み屋に向かったのだった。
ところが、待っていた友人の一人はご立腹で、遅刻はいかんとごもっともな説教を喰らってしまった。
彼はきっと、僕の中の甘えを見抜いていたのだろう。
あるいは、こいつならちょっとくらい遅刻しても良いだろうくらいに低く見られたように感じたのかも知れない。
そんなつもりはないのだけれど。

反対に、僕自身は、誰かに遅刻されてもさほど気にならない。
事前に連絡してくれていれば全然OKだし、10分くらいだったら連絡なしでも構わない。
流石に映画とか飛行機とか時間が決まっているものでは勘弁してもらいたいが、そうでなければ1時間以上の大遅刻も許せる。
僕はどちらかと言うと、相手に甘えてもらいたいタイプなのだろう。
緊張して気遣い合うような関係は仕事だけで十分で、プライベートではもう少し緩くありたい。
だから、気軽に遅刻して欲しいし、気軽に遅刻したいと思ってしまう。
相容れない人とは、なかなかうまくいかないかも知れない。

来週また、同僚の方々とスキーに行く約束をしている。
おそらく早朝に出発することになろうが、流石にこれは遊びといえど遅刻するとまずい。
陽気に当てられて寝過ごすなんてことになれば、同僚たちに迷惑がかかるし今後の仕事にも影響するかも知れない。
などと、来週に向けて緊張感を高めようとしてみたりしている。

2024年2月19日

最近、アウトプットばかりでインプットが足りないことが気になっている。
要するに、勉強する時間が取れない。

学会で発表をする、論文を書く、共同研究者と打ち合わせる。
どれも大体、直近の実験結果を解析して報告しているだけなので、ほぼアウトプットの作業になっている。
アウトプットばかりが続いていると、どんどん残弾数が減っていっているような、不安な気持ちが強くなる。
最近はもう、打てる弾もないのに何とか以前の話題をお化粧だけ直して出しているような、そんな気持ちに襲われている。

本当は、教科書を読んだり論文を読んだりしたい。
あるいは、ちょっと畑の違うセミナーを受講したり、新しい解析コードを試してみたりしたい。
けれども、そういうことをする時間と余裕が失われている。
雑務を処理して、装置組み立てのための打ち合わせに追われ、会議や研究会の発表資料を作り、書きかけの論文のための図を描いたりしている内に、気が付くと一日が終わっている。
休みの日を使えば良いのかも知れないが、実家に帰ったりスキーに行ったり、遊んでしまっている。
結局、余暇の時間をそれに充てるほどには、研究が好きではなかったということかも知れない。
何だか身も蓋もない話だけれども。

アウトプットばかりしていればいつか限界を迎える。
と言うか、実は、もう迎えているかも知れない。
勉強不足なまま目の前の仕事を片付けてしまっていて、実は世界から見ると周回遅れのことをやっているのではあるまいか。
そんな気がして、たまに恐ろしくなる。
そのことを確認することが怖くて、勉強を忌避している部分もないとは言い切れない。
それも含めて、ちゃんと勉強の時間が取れない(と言い訳しているかも知れない)ことが、最近の一番の悩みになっている。

2024年2月18日

高校の頃から親しくしている友人たちと会って、「ボーはおそれている」を観てきた。
「ヘレディタリー/継承」「ミッドサマー」で世界中を震撼させたアリ・アスター監督最新作。
何となく一人で観る勇気がなくて、前2作も観ている友人たちと約束して行ってきたのだが、その選択は正解だった。
今回も、アリ・アスターアリ・アスターだった。


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3時間ずっと、恐怖に怯える主人公ボーの観ている世界が提示される。
我々は、彼の恐怖をずっと追体験させられる。
二度と経験したくない3時間。
この表現が、むしろ本作を褒めていることになるのだから不思議だ。

ボーは、極端に管理主義的で過保護な母親の元で育ち、大人になってなお、何一つ自分では決められず、絶えず悪い予想や周囲のノイズに恐怖を感じながら生きている。
実家に帰ろうと飛行機のチケットを買って、前日の夜にベッドに入る。
静かに横になっているはずなのに、隣人から音楽の音量を下げろというメッセージが次々と投げ込まれる。
気が付くと飛行機の出発時刻の2時間前。
慌てて準備をして部屋を出る。
鍵をかけようとキーを入れたところで忘れ物に気づく。
中に取りに行って戻ってくると、キーも荷物もなくなっている…
起こって欲しくないと思っていることが次々と起きていく。
現実と妄想の境が曖昧になり、3時間かけてボレロのように、ボーの恐怖がクレッシェンドし続ける。
そのピークで、彼は自らの罪を糾弾され、恐ろしい結末を迎えることになる。

要所要所分からない部分もかなり多かったが、とにかく言えることは、今回も前2作と共通して、歪な人間関係(特に親子)に焦点を当てた作品だったということだ。
母親の枠の中からいつまでも出られない、という恐怖。
常に監視されて、一つ一つの選択が"正解"かどうかをずっと気にしている。
これは、割と多くの現代人が多かれ少なかれ抱える病だと思う。
多分、アリ・アスターは、自分も含めて多くの人がボーのようだと考えている。
相互に監視し合いながら、大量に提示される選択肢を前に常に戸惑っている。
主体的に選択している、と考えたとしても、その背景にある考えが誰かに植え付けられたものでない、とどうして言えようか。
自分で選んだようでいて、選ばされたのではあるまいか。
そして、もう一つの恐怖。
何か恐ろしい事態が起こってしまったとして、その原因が自分の選択にあったのではあるまいか。
今度は、自分が選んだのではないと思いたくなる。
これは、自分に責任があるんじゃない、誰かに選ばされただけなんだ。

恐怖に苛まれるボーを、名優ホアキン・フェニックスが見事に演じきっている。
彼が一体、どんな気持ちでこの役を演じたのか、とても興味がある。
アリ・アスター監督の次回作にも出演予定とパンフレットには書いてあったので、嫌だったということはないのだろう。
だが、この役から戻れなくなったらノイローゼになること必至だろう。
監督とはかなり良く話し合った上でキャラクターを作っていったということなので、ボーに対する理解はかなり高かったのだろうと推察される。
それにしても、「JOKER」や「ナポレオン」などで彼のファンになった人たちが、本作を観たらどう思うのだろうか。
いらぬ心配をしてしまった。

決して、誰かにお薦めすることはできない作品。
けれども、こんな映画をシネコンで観られる機会はなかなかない。
それに、ある程度の緊張感を持って集中して観なければ、この恐怖をまともに食らうことは難しい。
ある意味で、映画館で見ることに大きな意義のある作品だったと言えるだろう。
ただ、怪作であったことは間違いない。

2024年2月17日

祖母の特別養護老人ホームが決まりつつある。
先月で要介護度が一つあがり、入りやすくなったことも幸いしたのだろう。
今週になってあれよあれよという間に話が進んでいった。
今はロングステイという形で預かってもらっていて、僕も急遽実家に戻り、今日は施設まで様子を見に行ってきた。

正直、今までショートステイデイケア先にも断られることがあったため、今度の施設もあまりうまくいかないのではないかと危惧していた。
が、今日、施設で過ごす祖母に会ってみて驚いた。
自宅で介護している時からは考えられないくらい、状態が安定していたのだ。
ここ2年くらい、僕のことは誰か分からなくなっていたのだが、今日は分かっていた。
その上で、自分は子や孫に恵まれている、感謝してもしきれない、というようなことをしきりと話していた。
そんな殊勝な様子の祖母は長く見ていなかったと思う。
介護する側(父)にとってもされる側(祖母)にとっても、自宅介護は限界を迎えていたということだろうか。
単純にプロはすごい、ということなのかも知れない。

それにしても、今日祖母と話しながら、人間の脳の仕組みの不思議に思いを馳せずにはいられなかった。
ずっと忘れていたはずの記憶が、どうして蘇ってきたりするのだろう。
データが失われているわけではなくて、その処理に問題が生じているということなのだろうが、とてもそれが不思議に感じられた。
だって、つい1ヶ月前くらいには、食事を運んだ僕に名前を訊ねて同じ苗字なことを心底驚いていたというのに。
一つ一つのデータを適切に組み合わせて取り出したりする機能が、正常に働いていないということなのか。
音や光などの外部刺激に対しても、うまくそれを変換して処理に回すことができないから、応答もできないのか。
脳の中のノイズレベルが上がった状態、みたいなことなのか。
認知症の世界を題材にした本は世の中に多く出版されているけれど、ちょっと興味が湧いてきてしまった。

両親は、ここ5年くらい生活の中心であった介護がとりあえず一段落し始めたことを受けて、ほとんど放心状態に近かった。
どっと疲れが出て体調を崩さないか心配している。
あまりスキーにばかり行っていないで、折角だから両親を温泉にでも連れて行ったりすべきかも知れない。

2024年2月13日

推しに会いに行ってきた。
仕事を昼過ぎまでで切り上げて、いそいそとライブ会場に向かった。
久々のライブハウスで、とにかく近い。
推しの圧倒的な発光を前に、思考力とか語彙とか色んなものが飛んでしまって、今もまだうまく整理できていない。

実は今回のライブは、ファンクラブイベントの一つで、推しに関する難問で構成された検定試験の成績上位者のみが参加できるという特別なものだった。
5年ほど前にも同様の企画があり、その時にも成績上位者に何とか入ってライブに行くことができていた。
今回もまたイベント参加できたことは、とてもラッキーだったと思う。
ペーパー試験に強くて、本当に良かった。

それにしても、今日イベントに参加していて意外だったのが、最も良い成績を残した二人のファンクラブ歴が割と浅かったこと。
一人に至っては2年ほど前の加入だとか。
それが悪いという気は全くなくて、単純にすごいなと思ってしまった。
僕はファンクラブに入ってから既に10年以上が経っているわけだけれど、彼らの成績には遠く及んでいない。
好きになってからの密度がとても濃かったに違いない。
長い活動期間の様々な情報を字面の情報としてインプットするのは、大変な作業のはず。
それをあっさりこなしてしまうくらいには、どうしようもなくファンなのだろう。
良く新参か古参かという議論があるけれど、それが関係ないということが実感させられた瞬間だった。

それにしても、多分僕は、ファンクラブに入る前の期間も合わせると、古参の部類に入れられることだろう。
けれども、気持ちの上ではずっと新参者という意識がある。
正直に言って、僕が好きになった時は既にメジャーデビューを果たしていたし、大型タイアップで大々的に広告が打たれたタイミングだった。
本当の古参は、それより前の方々だろうという意識が拭えない。
しかも好きになってから3-4年は、ライブに行かず在宅ファンのままで何とも中途半端だった。
かといって、今日のイベントでトップを取るほどの知識量もない。
今日のイベントを見ていて、成績上位の彼らに誇れるものは歴くらいしか残っていないことに気がついて、あまりの中途半端さに恥ずかしくなってしまった。