童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

2024年3月6日

僕は自分の名前があまり好きではない。
苗字もそうだし、下の名前もそう。
名乗るときの気恥ずかしさが、どうしても抜けない。
子どもの頃からずっとそう思っている。

聞くところによると、下の名前は、父親がそれなりの願いを込めたらしい。
ふわっと説明するなら、世のため人のために頑張って欲しい的な願いだ。
それが割と硬い感じに込められていて、正直重たく感じている。
多分、親としては医者とか弁護士とかを想定していたのだろう。
結果として、特に誰の役にも立っていない研究者になってしまったのだから、ある意味でその願いは叶えられなかったと言えよう。
何だか申し訳ない気持ちがある。

それからもう一つ、自分の名前を好ましく思えない瞬間が、外国人に名乗るとき。
ほぼ覚えてもらえない。
何なら、発音すらされない。
多分、とても読みにくいはず。
昔、入国審査の時にあまりにもややこしい名前だということで笑われてしまったことがある。
日本人としてはそう珍しい名前でもないはずだが、それだけに、外国人にとっては如何にも日本人っぽい難しい名前なのだろう。
我々が、東南アジアの人の名前を難しく思う感じに似ているかも知れない。
確かに、タイ人の映画監督アピチャートポン・ウィーラセータクンは、全然正しく読めないし覚えられない。
苗字は仕方ないとして、簡単な名前で良いから、もう少し海外でも呼びやすい名前であったなら、と思うことは多かった。

これは完全に偏見だが、自分の名前があまり好きではない人は、自己肯定感が低くなりがちだと思う。
周りにも、自分の名前が好きではないと話している方が何名かいるけれども、いずれも決して自己肯定感は高くない。
十分愛されて育って、別に誰かにどう思われても全く気にならない人間であったなら、自分の名前くらいで恥ずかしくなったりしないだろう。
かくありたいと思うけれど、なかなか難しい。
それくらい、僕の中に根ざしてしまっている感覚なのだ。