童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

介護の連鎖

1年くらい前、「PLAN 75」という映画作品を観た。
カンヌ国際映画祭で特別表彰されて話題になり、日本でも割と多くの映画館で公開され注目を集めていたので、覚えている方も多いと思う。


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PLAN 75とは、75歳以上の高齢者に自ら安楽死を選択できるという架空の制度のことである。
本作はその制度があった場合のifを、高齢者本人や制度を薦める役所の職員、実作業を担う外国人労働者などの視点から描いた作品となっている。

本作は冒頭、高齢者施設で起きた大量殺人事件をほのめかす印象的なカットから始まる。
おそらくモチーフになっているのは相模原の障害者施設で起こった痛ましい事件で、それが作中のPLAN 75成立のきっかけとなっている。
この事件については、僕自身も以前の記事で書いていて、ずっと心に残っていた。
近日、やはり同じ事件に着想を得た「月」(石井裕也監督)も公開されることになっており、忘れられないで消化不良の人間は自分だけではないのだろうと感じる。
奇しくも、PLAN 75で役所の立場で苦悩する重要な役割を演じた磯村勇斗が、「月」でも最重要キャラクターとして登場すると言う。
観に行かねばなるまい。

 

さて、1年前「PLAN 75」を観た時にも、それなりに身近な問題だと思っていたのだが、最近さらにそのことを強く感じるようになってきた。
そのことを記事にして残しておきたいと思う。

 

ここのところ、2-3週間に1回のペースで実家に帰っている。
理由は、祖母の状態が良くないからだ。
正確に言うと、体の状態は悪くない。
むしろ健康そのものである。
しかし、頭の状態が良くない。
数年前に発症した認知症が進行して、よほど調子が良い時でなければ僕(孫)の顔も分からなくなっている。
すでに仕事を引退した父が在宅で介護しているのだが、今年に入ってからはそれもかなり辛くなってきている。
下の世話はまだ良い方で、体が元気な分ふとすると動き回ってしまい、勝手に部屋を移動したり庭に出て座り込んだり、夜中でも大声を出してしまう。
一回は仕方なく庭から引きずって家の中に戻したそうだが、その際に擦り傷ができてしまったようで、父は虐待をしてしまったとかなり落ち込んでいた。
僕が帰っても手伝いと言えるほど役に立ってはいないのだが、介護の愚痴を聞いて少しでも精神的な負担を減らせれば、と頻繁に帰るようにしているのだ。

父は、段々できることが減っていく祖母に対する苛立ちがどうしても抑えられないようだ。
父と祖母は、比較的歳の近い親子だけあってお互いに遠慮がない。
祖母は、日によって(1日の中でも)認知機能の状態がかなり変わる。
なのでおそらく、できるタイミングとできないタイミングの割合が徐々に変わって衰えていっているのだと思う。
だけど、わざとできないフリをしてサボろうとしたり、できないのを隠して威張って見せることがあるせいで、それが父の怒りを誘発する。
父をサポートしている母の話では、しょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩をしているらしい。

2-3週間ごとに様子を見ている自分からは衰えの進行がもっと顕著に見えて、父のように苛立つことはない代わりに、ショックが大きい。
特に今年になってからのスピード感は凄まじいものがあった。
去年まではまだ、名前は分からなくても「これは覚えているべき人間の顔だ」と思ってくれているであろうことが察せられた。
最近はもう名前を確認されることもなく、大声でわがままを言われることもあるし、かと思うと逆に、眠っているように静かで何を言っても無反応になってしまうこともある。

以前、椎名林檎嬢が何かのインタビューで「愛は知性の上にしか成り立たない」と言うようなことを話していた。
確かにそうかも知れないと思って心に残っていたのだが、最近祖母を前にするとその言葉が良く頭をよぎる。
愛や優しさと呼ばれるものは、知性に裏打ちされた想像力や予測能力や余裕によって生まれる気がする。
元々かなりくせのある人だったことは確かだが、それでもかつての祖母には愛や優しさがあった。
認知にバグが発生して知性が失われかけた今、彼女の行為からそれを感じることは難しくなってしまった。

流石の父も施設に預けることを検討し始めたようだが、すでに父も、それを支える母も、体力・精神の両面で限界に近づいている。
離れて暮らしていて介護の当事者でない分あまり強く言うこともできず、良い決断ができるように後押しすることしかできていない。

 

さて、そんな祖母の介護を覗いていてどうしても目についてしまうのが、次に控えている父の衰えである。
大きな持病はないものの、明らかに体力は落ちているし、寝不足のせいなのか食卓などで寝落ちすることが増えてきた。
歳が離れている分、もしも父が祖母と同じくらいの年齢で認知症を発症したとして、自分はまだまだ現役世代だ。
現在の父のように介護することは、とてもじゃないが不可能になる。
なかなか施設に預けることに踏み出せない父を見ながら、果たして自分は父の時にそれを判断できるだろうか…としみじみ考えてしまう瞬間がある。
実際、父もまた、祖母を見ながら未来の自分を見ている気がするとか、お前にも迷惑かけるかも知れないとか、恐ろしいことを口走ったりする。

もっと恐ろしいのは、自分が衰えた時のことだ。
このままいけば、同性愛者寄りの無性愛者な僕が、いわゆる家族(とりわけ子ども)を持つ未来はほぼあり得ない。
世話をしてくれる家族がいなければ、自らの財産で何とかサービスを受ける他なかろう。
毎月の給与や預金残高を見ながら震えている。
もう少しマクロな視点に立ってみると、事情は違えど僕のように独身の人生を選択している人は極めて多い。
一部の政治家が固執する伝統的価値観に従って家族が介護を受け持つ「自助」とやらはとっくの昔に破綻しており、早晩崩壊する運命にある。
終わって欲しい時に終わらないのが、人生。
自分が仮に生き延びて老人になった時、一体どんな未来が待っているのか。

 

そう言うことを考えていると、去年観た「PLAN 75」が、どうしても頭をチラついてしまう。
個人的に、PLAN 75のような制度には強く反対の気持ちを持っている。
新型コロナウィルスの時のマスク警察を引き合いに出すまでもなく、同調圧力が暴走しがちな本邦において、自由に死ぬ権利は、容易に義務に変換されるだろう。
自ら死を選ぶことを推奨し決断を迫る社会が健全なものだとは、どうしても思えない。
あの相模原の事件の犯人と共通する優生思想めいたものを感じてしまうのだ。

と思う一方で、実家に帰ると現実の問題が目の前に横たわっていて、将来の問題がその向こうでじっとこちらを見据えている。
一体、どうしたら良いのか。
良い解決方法は浮かばないままただ振り回されている現状が、何とも歯がゆい。