童貞見聞録

アラサー超えてアラフォーのセクシャルマイノリティ童貞野郎が心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけるブログ

関心領域

ここへ来て、観たいと思っていた映画の封切りが続いている。
その内の一つ「関心領域」を観に行ってきた。


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アウシュビッツ強制収容所のまさに隣に住む、司令官一家の日常を追った作品。
湖で休日を過ごし、温室も備えた豊かな庭を楽しみ、父の誕生日にサプライズプレゼント。
裕福な家庭の仲睦まじい様子が描かれながら、絶えず隣から叫び声や銃声、黒い煙が背景に重ねられて、明確な狂気がすぐ隣にあることを意識させられる。

主人公ヘス一家は、その狂気の存在に気づいていながら、意図的にそれを無視している。
その狂気に生活を支えられていることに自覚的である癖に、その意味を敢えて考えないようにして、負の痕跡を消し去ろうとする。
それが端的に現れていると感じたのは、親子で川で遊ぶシーン。
父ルドルフが釣りをしていると、足に触れた何かを拾い上げて、それが人骨だと気づく。
次の瞬間、彼は子供たちに川から上がるように指示してすぐに帰宅。
そして自分も含めて全身を洗わせるのだ。
つまり、彼らは自分たちが何をしているのか、何によって生かされているのかを分かっている。
分かっていて、敢えて恐ろしい部分を見えないようにして、意識から排除している。
まさに、関心領域。
本作のテーマを的確にまとめた、極めて秀逸なタイトルだと思う。

観客を含めて、ヘス親子のように関心領域をうまくチューニングできない人間に、彼らの暮らしは耐えられない。
産まれたばかりの赤ん坊は、耐えず聞こえる音(おそらく匂いも)を感じてか、泣き止むことがない。
そして、ルドルフの妻ヘートヴィヒの母親がドイツから訪れるシーン。
自慢の庭を案内されて彼らの暮らしを絶賛するものの、全く寝られなくなっていつの間にか帰ってしまう。
如何にヘス親子が狡猾に暮らしているかが、浮き彫りになる。
多くの人が指摘していることだが、やはりその姿は、世界中で起きている貧困や暴力、紛争を知りつつも敢えて目を瞑って生きている我々の姿が重なって見える。
我々は、理不尽な搾取を前提にした仕組みの上で豊かさを享受することに慣れてしまっている。
ユダヤ人から奪ったであろう衣服を分け合い、あろうことか高価なコートを当てて鏡の前でポーズを決めるヘートヴィヒ。
鏡に映っているのは、醜悪な我々の姿とも言えるのではないか。

と同時に、やはり彼らもまた、隣で起きている惨状を意図的に意識の外に追い出さない限りは人間性を保つことができない、と言う点に何がしかの救いを感じる。
つまりそれを強く意識してしまったら、やはり狂ってしまうのだろう。
本作終盤、ルドルフは、ドイツ人たちが集まる部屋を見ながら、ガスで殺すならどうすれば効率的か、と言うことを考えてしまう。
つまり一瞬だけ、自分の行なっていることを相対化して、対象が入れ替わってしまう。
それを受けてのラストに向けた展開は、やはり極限での人間性の発露とも言うべきもので、ある種の感動があった。
やはり人間は、あの行いを許容することはできないのだ。肉体のレベルで。

実際の虐殺行為は、一度も描かれない。
だからこそ、こんなにもその凶行を想像させられた作品はない。
少し前に「オッペンハイマー」を観に行った感想で、原爆を落とされた日本人としての物足りなさがあるということを書いた。
その物足りなさの解決策の一つを、本作が提示してくれたような気がする。
ラストに挟み込まれた、唯一の「現場」のシーン。
あれは、完璧なタイミングでそれを補完していた。
しかも、敢えてその「現場」をとある現代の姿で挿入することが、極めて批判的に観客の目に映る。
余りにも容赦のない仕組みだった。

本来、こうしたタイプの作品が全国的にロードショーされることは珍しい。
今日は映画鑑賞料金が安くなる日で、しかも土曜だったと言うこともあってか、かなりの人数が本作を観に来ていた。
決して万人に受けるタイプの映画ではないし、かなりとっつきにくいことも確かなので、今日の観客の人々がどう思ったのか、少し不安には思っている。
ただ、それでも、劇場で集中して観るべき作品であることは間違いない。